夜はまだ明けない――ほの明るいのは桜並木だ。
咲いている花のうえには残月があった。
「いそいで――」
と、月輪の館から、老公をのせて、ぐわらぐわらと曳き出した牛車(くるま)のうしは、手綱に泡をふいて、小松谷の法勝寺御堂へ駈けつけてゆく。
「待てっ」
「どこへ行く」
小御堂の近くへ来ると、小具足を纏(まと)った武者たちが、牛車のまえに立ちふさがって咎(とが)めた。
「――通ること相ならん。官符(かんぷ)を持ちおるかっ」
老公は牛車の裡(うち)から、
「誰の御人数であるか」
と、たずねた。
武者の一人が、
「領送使(りょうそうし)清原武次(きよはらのたけつぐ)が手の者と、奉行周防判官(ぶぎょうすおうのほうがん)元国が家臣」という。
老公は、うなずいて、
「ご両所を、ここへ召されい。儂(み)は、月輪禅閤でおざる」
「や、月輪の御老公におわすか」
驚いて、武者が走ってゆく。法勝寺の別院に屯(たむろ)していた領送使の清原武次は、すぐ老公を迎えて、仮屋の一室へ迎えた。
「このたびの役目、ご大儀である」
と、老公は、一応の挨拶をした後、
「火急、未明のうちに参ったのは余の儀でもおざらぬ。上人がこのたび下向(げこう)の命を沙汰された土佐国は、御老躯に対し、あまりにご不便。で――儂が所領する讃岐国(さぬきのくに)小松の庄へお預かり申したいと、実は、先ごろから朝廷へお願いいたしてあったところ、昨夜おそく、評定所において、願いの儀ゆるすとの御決定がござった。――それゆえ今暁の土佐下向は、讃岐へ変更と相成るによって、篤おふくみくださるように」
武次は驚いた。
「はっ、承知仕りました」
とはいったものの、(そういう寛大な変更がどうしてあったか?)と、疑問を挟まざるを得ない。
老公が、そこを去って、小御堂のほうへ足を運ばれてゆくのを送ってから、すぐ奉行の周防元国と相談して、(讃岐中郡(なかごおり)へ、変更の儀は、実(まこと)か訛伝(かでん)か)と、官へ急使をやって、問あわせた。
それと入れちがって、評定所から、騎馬の使者が飛んできた。
にわかに、上人の配所先が、変更されたのは事実だった。
うっすらと、そのころ、朝の薄浅黄いろの空が、花の梢明るみ初めていて、そこらの篝火(かがり)は、燃えつきている――
寅の刻。
まさに定めの時刻だった。
法然上人は、静かに、法衣(ころも)を脱いで、俗服の粗末な直垂衣(ひたたれ)に着かえていた。
十幾歳のころから今日まで、およそ六十年のあいだ、一日とて、脱いだことのない法衣を官へ返して、名も、今朝からは俗名の藤井元彦と呼ばれることになったのである。
白い髪が、綿のように伸び、顎(あぎと)にも、伸びた髯が光ってみえる。
それへ、梨子地の烏帽子をかむり、領送使のすすめる輿のうえに身をまかせた。
輿へ移る前、「月輪どの」と、法然は、自分を取り囲んで今朝を「見送る人々のうちに、老公のすがたを探していた。
*「領送使(りょうそうし)」=流刑の罪人を配所に護送する使いの役人。