『出会いも縁別れも縁』(中期)

「縁」はまた「縁起」といいます。

一般に私たちがこの言葉を口にするのは「縁起がよい」とか「縁起が悪い」というように「ものごとの起こるきざし、前兆」などについて語るときで、このような考えに基づく「縁起直し」とか「縁起物」といった風俗習慣も見られます。

けれども、「縁起」とはそのような善悪の予兆を物語る言葉ではありません。

本来、お釈迦さまが目覚められた真理のことで、「縁起」とは「因縁生起」=「因っておこること」を意味します。

そこで「苦しみは、なんらかの直接的な原因(因)と間接的な条件(縁)によって起こり、その原因・条件(因縁)がなくなれば、苦しみもなくなる」と説かれることになります。

また、「縁起」には、苦しみを生み出す因果の系列をさかのぼることによって、苦しみの根本的な原因、これを仏教では「無明(根本煩悩)」といいますが、それをさぐり当て、消し去ることによって苦しみを解消することを目指す実践的行為へと繋げていきます。

縁起の思想は、仏教の根本教義であることからいろいろな解釈がなされていますが、基本的には

「これあればかれあり。

これ生ずればかれ生ず。

これなければかれなし。

これ滅すればかれ滅す」(『雑阿含経』)

と説かれていることから、「この世に存在しているものは、何一つとして単独であるものはなく、みんな持ちつ持たれつの関係性の中で、すべてが存在している」と理解することができます。

そうしますと、私たちが見たり体験したりしているこの世界のすべての出来事には、必ず諸々の原因と条件が重なり合って成り立っていることが知られます。

ともすれば、私たちは不慮の事故に遭った時や、突然の災難に見舞われた時など、それが不意に起こった不条理なことと受け止めてしまいます。

けれども、実はその事柄には必ず原因があり、様々な条件が重なりあっているのです。

この場合、私たちはそれが自分にとって不都合で受け入れがたい出来事であったりすると、その原因をしばしば他に求めて責任を転嫁してしまいます。

これを仏教で「愚癡(ぐち)」といいます。

たり、承知できなくてもその現実を受け入れざるを得ないと、運命という言葉で諦めようとしたりします。

一方、この現に私の身に起きている事実をごまかすことなく直視し、あるがままに実の如く見ることを「縁起を見る」といい、またそのように見ることができるあり方を「智慧(智慧)」を得るといいます。

仏教が目指しているのは、まさにこの「智慧」を得るということにほかなりません。

この世の中は、鴨長明が『方丈記』(現代語訳)で

川の流れは途絶えることはなく、しかもそこを流れる水は同じもとの水ではない。

川のよどみに浮かんでいる泡は、消えたり新しくできたりと、川にそのままの状態で長くとどまっている例はない。

この世に生きている人とその人たちが住む場所も、また同じようなものである。

玉を敷いたように美しくりっぱな都の中に、棟を並べ、屋根の高さを競っている。

身分の高い者も低い者も、人の住まいというものは時が進んでもなくなるというわけではないが、これは本当だろうかと思って調べてみると、昔から存在している家というのは珍しい。

あるいは、去年の火事で焼けてしまい今年作った家もあれば、大きな家だったのがわかれて小さい家になっているものもある。

そこに住む人も同じである。

場所は変わらずに住む人は多いが、昔会った人は、20〜30人の中にわずか1人2人程度である。

朝に死ぬ者があれば、夕方に生まれる者がいるという世の中のさだめは、ちょうど水の泡に似ている。

私にはわからない。

生まれ死にゆく人は、どこからやってきてどこに去っていくのだろうか。

また、(生きている間の)仮住まいを、誰のために心を悩まして、何のために目を喜ばせようとする(そのために飾る)のかということも、またわからない。

家の主と家とが、無常を争っている様子は、言うならば、アサガオと、その葉についている露と同じようなものである。

露が落ちて花が残ることがある。

残るとは言っても朝日がさすころには枯れてしまうが。

あるいは花がしぼんでも露が消えずに残っていることもある。

消えないとは言っても夕方になるまで消えないとうことはない。

と著しているように、すべてが変化し何一つ頼るものはありません。

そのような世界において、今私がここにこうしてあるという事実は、多くのいのちによって支えられてあるということです。

出会いには喜びが、別れには悲しみがともなうことがありますが、その根底には必ず原因があり、多く乃条件の重なり合いがあります。

私たちは、それらを実のごとくに見ることができないため、煩い悩んだりします。

だからこそ、いろいろな機会を通して仏法に耳を傾けることが大切なのだと思います。