「やっ」
仰ぐと――その声のする空もいちめんの煙であったが、そこに、まだ火をうけていない大きな楢(なら)の木があった。
「おい、泣き代官、今にみろといったおれのことばが、今夜は思い知ったろう」
声は、その梢からするのであった。
――じっと見ると、猿のような人影が葉がくれに登っている。
「アッ、おのれ」
萩原年景は、樹の下へ駈け寄って、
「蜘蛛太だなっ」
「そうだ、おれは蜘蛛太だ」
「こよいの火放(つ)けは、おのれの仕業か」
「いうまでもあるめえ。人われに辛ければ、われまた人に辛し。――火はおれが放けたんだが、今夜の憂き目は、てめえの自業自得というものだ」
「ムムッ……悪魔め」
「悪魔とは、てめえのことじゃねえか」
「残念だ」
年景は、部下を呼んだ、召使の名をさけんだ。
しかし、答えもない、聞えるものは、ただごうごうと炎のすさまじい音が、いよいよ風に猛っているだけだった。
「ざまを見ろ。――あれを見ろ、親の因果は、子にまで祟(たた)るというが、火の中で、てめえの子や妻が、悲鳴をあげて、逃げ口をさがしている。……アア綺麗な火だなあ」
「悪魔っ、外道っ」
「なんとでもいえ、おれの眼には、この火事が綺麗に見えてこたえられねえ。酒があれば、肴にして、一杯飲みてえくらいなものだ」
ぴゅっ――と年景の手から白い光が梢へ走って行った。
彼の帯びていた短剣だった。
それが外れると、太刀のほうも抜いて投げた。
キキキキと、猿のような笑い声がして宙の木の葉が騒いだ。
石、瓦、木片、手当り次第にひろって、年景は宙へ投げたが、みな自分の頭上へ返ってくるだけだった。
蜘蛛太は、どう逃げたのか、もうその樹にいなかった。
――すると、もういちめんの焔になっている館の囲いを躍りこえてきた勇猛な一つの人影があった。
彼の家来でも、役所の者でもなかった。
真っ赤な火光(ひかり)の中を走ってくる影を見ると、明らかに、それは僧形の人だった。
「おうっ……」
年景は、振りかえって、ぎょっとした。
――それは忘れもしない――かつて領下の田を、狩猟(りょう)にでた帰り途に見廻ってくる途中で、松並木に、念仏の名号をかけて、村民たちに説教をしていた配所の流人僧である。
――その時、自分は大の念仏ぎらいであるし、自分の通過も怖れず、突っ立っているその僧を憎い奴と思って、馬上から名号の掛物を引きやぶッてやろうとすると、それを拒んで、自分の馬蹄の下に倒れ、顔かどこかに怪我をしたあの僧である。
後に聞けば、それは親鸞の弟子僧のうちでも、最も、前身にすごい経歴を持っている人物で、以前は天城四郎といっていた強悪の賊であったが、今では、念仏の行者になって、名も生信房と改めている男だと聞いている――
その生信房が、今、忽然とこの炎のなかへ駈けつけてきたのである。
年景は、ぶるぶると体がふるえてしまった。
――刹那に、彼の頭を突きぬくようにはしったのは、
「復讐(しかえし)に来たな」
という恐怖だった。