場所が小高い丘であるし、正面海の風をうけるので、国府の代官所と年景の住居(すまい)をくるめたそこの一廓は、焔々(えんえん)と、紅蓮のほしいままな勢いにまかされていた。
「――魔火じゃ」
「どうして、火の気もない、御文書庫から?」
と、役人や小者たちも、手をこまねいて、猛火のすごい勢いに気をのまれたかのように、傍観していた。
火事だっ――と誰かさけんだ時は、もう役所の奥の書類のつまっている一棟が完全に日の中にあったのである。
原因のわからない火だった。
夜なので、役所のほうには、三、四人の小役人が宿直(とのい)をしていたに過ぎなかった。
丘の東の麓に、代官所の部下がだいぶ住んでいるが、そこへも火がかぶるのでめいめいが、わが家のことや家族の処置にいっぱいで、誰も、ここへは駈けつけて来ない。
国府の領民も、初めは、
(たいへんだ)と、驚いたが、すぐ、
(なんじゃ、代官所か)と、すぐ冷静になってしまった。
(日ごろ、わしらを、牛か馬のように思うて、苛税(かぜい)を取りたてた酬いじゃ、あの赤い火は、代官所を呪うている貧しい百姓たちの思いが燃えるのじゃ、常々、威張りくさってばかりいる代官の顔を笑うて見てやれ)そういう感情が、領民の誰にもあった、口にいう者はなかったが、他国の火事でも見るように、この人々も、そこへ走(は)せつけて行こうとはしない。
大きな火ばしらは、音をたてて今、一棟を焼き仆(たお)していた。
廓内の大樹にもみな火がついて、火の葉、火の華が、宙に咲いた。
――その下に、女たちや、幼子の悲鳴が聞えた。
年景の側女だの、家族たちのいる棟へも、とうに火は移っていたのである。
「おいッ……おいッ……」
煙のうちから、泣くようなわめきが響く。
それは、年景の声らしかった。
「――小者っ、こっちだっ、こっちへ助(す)けに来いっ」
咽(む)せながら、呼んでいる。
だが――奥に仕えている小侍や小者たちも、いったいどこへ行ってしまったのか、半分も影が見えなかった。
そのくせ、真っ先に、暴徒のような勇気を奮って、奥の金目な物や、大事な什器などを、争って外へ担ぎ出していたのは彼らであったが、その品物も見あたらなければ、奉公人たちも見えないのである。
年景はようやく気づいて、
「ふッ、不埒者めッ。主人の難儀を幸いに、あの奴らはみな、家財を盗んで逃亡しおったな。……ど、どうするか、後で見ておれ」
地だんだ踏んで、煙の中で、ただ二、三の召使と、必死になって、右往左往していた。
彼は、役目上、役宅のうちから、領土の検見張(みはり)だの、京都との往復の文書だの、政治上の大事な書類などを、死んでも担ぎ出さなければならなかった。
――だが、火の手はもう、逃げ口をふさいでいた。
自分の狼狽よりも、彼は、煙の中から聞えてくる家族たちの悲鳴に、逆上してしまった。
抱えている書類の束にも、火がついていた。
「――誰かいないかっ、おれはいいが、妻だの、幼い子たちを、炎の中から出してくれっ。誰かっ……誰かっ……」
絶叫すると、どこかで、
「代官、代官。――泣き代官」
と、笑い声がした。