すでにその前から、憤怒、減失、狼狽、あらゆる感情のみだれに、われというものすら失っている年景である。
(いつかの流人僧だな)と、眼のまえに生信房のすがたを見ると、彼は蒼白になり、体はふるえ、口は渇ききって、恐怖のさけびも出なかった。
(――今こそおれは、復讐されるのだ、存分に、苦悶を味わわせられて、ここで人間の終りを告げるのだ)と思うと、生への未練やら、なんとか生きたいとう思うもだえやら、悔悟やら、またさまざまに人間的の弱さがこぐらかってきて、醜い眼を、うつつキョロキョロうごかし、隙を見たら、逃げそうな挙動をした。
「年景どのか」
と駈け寄ってくるなり生信房は喘(あえ)いだ息でいあった。
それすら、年景の耳には、うつつなのであった。
「…………」
「代官の萩原殿ではないか。――オオそうだ、あなたは年景殿にちがいない」
「…………」
「なにを茫然としているのだ」
生信房は叱咤するようにいって、彼の肩をたたいた。
「官衙(かんが)のうちの、大事な書類はすっかり持ち出されたか。……やっ……焔のかなたには、女子供の悲鳴が聞えるが、あれはご家族ではないか」
「……そ、そうじゃ」
危害を加える様子がないので、年景はやっとこううなずいた。
生信房は、愕然として、
「ええ家族の者も、まだ救い出されずにいるのか。……ええっ、ぐずぐずしていては焼け死んでしまうわ、あなたは一体、何をしているのだッ、あの悲鳴は、あなたの子ではないか、妻ではないか」
「――じゃが、まだ、役宅のうちに、大事な書類があるし、あちらへも救いに行けず、ここも炎」
「炎がなんだッ。信念をもって行くところには炎も避けるわ。――そうだ、わしは奥の棟へ行って、おぬしの子や妻たちを抱え出して進ぜるほどに、おん身は代官として、公(おおやけ)の文書や、印鑑、絵図など、政(まつり)に要(い)る大事なものを火の裡から持ち出されい」
いいすてると、生信房は奥の館へ向って、煙をくぐって行った。
役所と、奥の棟とよぶ住居のあいだに、板塀があった。
そこには門もあるはずだが煙で見つからない。
恐らく中で悲鳴をあげている女子供らも、うろたえて、そこの木戸が見つからずに、右往左往しているのではあるまいか。
そう考えたので、生信房は、その辺りにあった太い栗丸太を横にかかえて、板塀を突き破った。
二ヵ所も三ヵ所も、同じ手段でたたき壊した。
仆れた塀のうえには、わっと、大勢の女たちが、煙に追われてなだれてきた。
仆れる者の上へ、仆れる者が重なった。
「――年景どのの奥方ッ」
生信房は、さがし廻った。
逃げまどってくる者は、みな召使の下婢(はした)や側女たちばかりで、子を抱いているはずの年景の妻は見あたらなかった。
すると、煙の裡に、泣きさけぶ嬰児(あかご)の声が聞えた。
見ると、年景の妻が、幼子の手を引いて、発狂したように、炎へ向って、なにかさけんでいるのだった。
*「こぐらかって」=こんぐらかって。