『ありのままの私を受けとめてくださる阿弥陀さま』(前期)

朝起きて目を覚ますと、一番最初に眼前に飛び込んでくるのは、家の壁や天井だったりすると思います。

そして、そのまま洗面所へ行き鏡の前に立って初めて今日の自分の顔をご覧になるかと思います。

その顔をみて、あなたはどのような感想をもたれるでしょうか。

「いつも以上に寝ぐせがひどくて、髪の毛がボサボサだ」

「寝不足で顔がむくんで、目も垂れ下がってる」

「ヒゲがのびてもじゃもじゃだ」

いろんな感想をもたれる中で、そこから顔を洗い、髪を整え、ヒゲを剃ったり、お化粧をしたり、身なりを整えることかと思いますが、それは一体なんのためにするのでしょうか。

よくよく考えてみると自分のためというよりも、「自分以外の誰かからよくみられたい」という思いからしていることだったりしないでしょうか。

すなわち、「他人からどうみられるか」ということを気にしていることに他なりません。

整えた自分の姿がありのままの私か、と聞かれると、とてもではないですが、「そうです」とは言えないのではないでしょうか。

私たちはそのように他人からみて「いい人」にうつるように、あるいは少しでもよくみられるように自分というキャラクターを演じてすごしているような気がします。

中にはそんな「いい人」を演じ続けているうちに、本当の自分というものがわからなくなってしまったという方もいらっしゃるのではないでしょうか。

「ありのままの私」はどんな人、ときかれた時に自分が自分のことを一番よくわかっているつもりが、考えてみたら実はよくわからないという方も少なからずいると思います。

ではなぜそんな「私」がわからないのかというと、それは私が近すぎるからではないでしょうか。

自分からはなれた近くや遠くは比較的みることができても、自分の顔や、目・鼻・口などを直接みることはできませんね。

ほっぺたや唇に食べ物をくっつけていても時々それに気づけないことすらあります。

そんな自分の姿すら自分でみることができない私たちのことを仏教では、煩悩具足であると教えております。

煩悩とは私たちを惑わせ悩ませる欲の心のことです。

仏教の開祖、お釈迦さまは、真実の姿をうつす「法」という鏡をお与えくださいました。

「法」とは真実のことであり、時代や場所に左右されずいついかなるときも変わらないものです。

仏法をきくということは、今まで気づかなかった自己、ありのままの自分の姿をみるということなのです。

我が身をうつしている鏡をみて「悪くない」と思っていても、近づいてみると近づかないとみえなかったアザやシワ、シミがあることに一憂することもあるかと思います。

思いも寄らない自分の知らなかった・気づかなかった姿に驚くかと思います。

真実をうつす法の鏡に照らし出されると、煩悩にまみれた自分の姿に気づかされます。

法律・道徳的に考えた時には善人や悪人というものがありますが、仏の眼からみると、人間はすべて悪人しかも極めつけの極悪人ということになります。

そんな煩悩にまみれた私たちを「煩悩具足のまま」すくいとってくださるのが阿弥陀さまの教えであり、阿弥陀さまの本願に出逢わせていただくということなのです。

「弥弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人が為なりけり、されば若干の業をもちける身にてありけるを、助けんと思召したちける本願のかたじけなさよ」

浄土真宗の開祖、親鸞聖人の著書歎異抄のお言葉ですが、どういう意味かといいますと

「弥陀が五劫という途方もない永い間、考えに考えを重ねてお誓いなされた本願を、よくよく思い知らされれば、全く親鸞一人を助けんがためだったのだ。こんな無量の悪業を持った親鸞を、助けんと誓い立ってくだされた本願の、なんと有り難くかたじけないことか」

という意味です。

もちろんこれは、親鸞聖人のためだけのことではありません。

私たち一人一人が自己の真実に照らされ、救われた時、「私ひとりをすくいとろうとしてくださるかけがえのない阿弥陀さまの本願のお心であった」というわけです。

ありのままの私をそのまま救いとってくださる方は、後にも先にも、天にも地にも、阿弥陀さまよりほかにないのです。

そのありのままに摂取されるまで、仏法をきかせていただきながら、み教えをよろこびきかせていただきましょう。