私たちは、時々見栄をはることがあります。
しかも、それは意識してのことではなく、どちらといえば無意識の内に…という場合が多い気がします。
どうして、私たちは思わず見栄をはってしまうのでしょうか。
「見栄(みえ)」というのは、辞書には「うわべを飾る。外観を繕う」と説明されています。
そうすると、私たちがつい見栄をはってしまうのは、きっと「自分の本当の姿を他人に見られたくない」と思うからかもしれません。
では、「他人に見られたくない自分の本当の姿」とは、いったいどのような姿なのでしょうか。
人は、誰もが心の奥に「理想の自分の姿」を思い描いているのですが、現実の自分の姿に目を向けると、残念ながら自分の姿は決して理想通りではありません。
そのため、つい「理想通りではない今の自分は、本当の自分の姿ではない」という思いが、無意識の内に自分のうわべを飾らせたり、外見を繕わせたりしてしまうのではないでしょうか。
でも、そんな飾ったり繕ったりした自分は、本当の自分でないことは、誰よりも自分自身が一番よく知っています。
そのため、見栄をはると、余計に飾ったり繕ったりしたものの重さが肩にのしかかり、肩がこったりするのです。
だから、先ずは「見栄」をはることなどやめにして、率直に自分を見つめ、そこに明らかになった姿が、たとえどんなに愚かで情けなかったとしても、あるがままの自分を認め、受け入れるようにしたいものです。
親鸞聖人は、九歳から二十九歳までの二十年間、比叡山において命懸けで学問・修行に励まれました。
その結果おっしゃったのは「地獄こそが私の終の住処である」という言葉です。
普通、それだけのご苦労なさったら「そろそろ悟りを開けるかもしれない…」といわれたとしても不思議ではありません。
ところが、口にされたのは、自分の行く先は地獄しかないという言葉です。
なぜ、そのようなことを言われたのでしょうか。
例えば、光のない場所では、自分の手が汚れていても分かりません。
ところが、光に照らされると、手の汚れを知ることができます。
「人間の眼は光を見ることはできないが、光に照らされて我が身を見ることはできる」と言われます。
私たちの迷いにくもった眼では、仏さまのおすがたを見ることはできませんが、仏さまの智慧の光に照らされて、我が身を見ることはできます。
そして、そこにあらわになった自身の姿を見ることを通して、今自身が仏さまの智慧の光に照らされていることを知ることができます。
この事実を『正信偈』には「われまたかの摂取の中にあれども、煩悩眼をさえて見たてまつらずといえども、大悲ものうきことなくて常に我が身を照らしたもう」と述べられています。
親鸞聖人は、阿弥陀如来の教えを通して、どれほど学問・修行に励んでも、死ぬ瞬間まで自身の力では迷いを消しさることはできない我が身の愚かさに気付かれました。
それと同時に、そのように愚かな私であればこそ、決して見捨てることなく、流転の迷いのいのちを断ち切って、真実の世界(浄土)に生ぜしめ、必ず悟りを開かせずにはおかないと阿弥陀如来から願われている我が身の事実に深く頷かれました。
だからこそ、たとえ我が身は地獄にしか往きようのない身であったとしても、悠々とその事実を生き尽くしていかれたのだと思います。
それは、いつでもどこでも、私の称える「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏…」の念仏の声となって、常に我が身に寄り添い、ありのままの私を受けて止めくださる阿弥陀さまを感じておられたからだと言えます。