今から半世紀前、アメリカで
「体罰が暗記学習の成績向上に有効かどうか」
という実験がなされたそうです。
それはどのような内容だったかというと、教師役が被験者の生徒役に問題を出し、正解を出せないと生徒役に電気ショックを与えます。
電圧は最初45ボルトで、生徒が一問間違えるごとに15ボルトずつ電圧の強さを上げるというもので、電気ショックを与える機械の前面には、200ボルトのところに
「非常に強い」、
375ボルトのところに
「危険」
などと表示されていました。
「命がけの実験をするとは、なんと乱暴な!」
と思われるかもしれませんが、実はその実験目的も電気ショックも嘘で、本当の被験者は教師役なのでした。
偽の電圧操作盤を回すと、生徒役は壁越しに悲鳴をあげ、実験の停止を懇願するのですが、実験の監督者は、感情を全く乱さない超然とした態度で
「これは大切な実験だ」
ということを教師役に強調し、
・続行してください。
・この実験は、あなたに続行していただかなくては。
・あなたに続行していただく事が絶対に必要なのです。
・迷うことはありません、あなたは続けるべきです。
と、実験を続けるよう教師役に言い続けました。
四度目の通告がなされた後も、依然として被験者が実験の中止を希望した場合、その時点で実験は中止されましたが、そうでなければ、設定されていた最大電圧の450ボルトが三度続けて流されるまで実験は続けられました。
この実験への協力者は、新聞広告を通じて
「記憶に関する実験」
に関する参加者として20歳から50歳の男性を対象として募集され、一時間の実験に対し報酬を約束された上で大学に集められました。
なお、実験協力者の教育背景は、小学校中退者から博士号保持者までと変化に富んでいました。
実験の結果ですが、表示される電圧が
「危険」
と表示されていた375ボルト以上の400ボルトを超えても実験を続けた教師役は何人いたと思われますか。
これが実験の真の目的だったのですが、事前の学者の予想では2%未満でした。
ところが、実際は65%の人が最後まで実験継続を拒まなかったのだそうです。
これは、主導した学者の名前から
「ミルグムラ実験」
と呼ばれていますが、この実験結果が示しているのは
「権威者の命令があれば、人は容易にその支配下にある者にどこまでも残酷になれる」
ということです。
この
「権威者の命令」
は、大義名分とか正義の感情に置き換えられる場合もあります。
この実験が行われたのは、次のような事柄に基づきます。
第二次世界大戦中、東ヨーロッパ地域の数百万人のユダヤ人を絶滅収容所に輸送する責任者であったアドルフ・アイヒマンは、ドイツの敗戦後、南米のアルゼンチンに逃亡して
「リカルド・クレメント」
の偽名を名乗り、自動車工場の主任としてひっそり暮らしていました。
彼を追跡するイスラエルの情報機関が、クレメントが大物戦犯のアイヒマンであると断定した直接の証拠は、クレメントが妻の誕生日に花屋で彼女に贈る花束を購入したことでした。
その日付は、アイヒマンの妻の誕生日と一致していたからです。
また、着目されたのは、イスラエルにおけるアイヒマン裁判の過程で描き出されたアイヒマンの人間像が、大量の殺戮を平然と行う人格異常者などではなく、真摯に
「職務」
に励む一介の平凡で小心な公務員の姿であったということです。
このことから
「アイヒマンはじめ多くの戦争犯罪を実行したナチス戦犯たちは、そもそも特殊な人物であったのか?それとも、家族の誕生日に花束を贈るような平凡な愛情を持つ普通の市民であっても、一定の条件下では誰でもあのような残虐行為を犯すものなのか?」
という疑問が提起されました。
そこで、アイヒマン裁判の翌年に、この疑問の回答を得ようとして実施された訳です。
なお、全ての被験者は途中で実験に疑問を抱き、中には135ボルトで実験の意図自体を疑いだした人もいました。
また、何人かの被験者は実験の中止を希望して管理者に申し出たり、
「この実験のために自分たちに支払われている金額を全額返金してもいい」
という意思を表明した人もいました。
しかし、権威のある博士らしき実験の監督者によって
「一切自己の責任は問われない」
ということが確認されると、300ボルトに達する前に実験を中止した人は一人もいませんでした。
生徒が自殺してしまったことで大きな社会問題化している、大阪市の高校の部活での常識の範囲を逸脱した生徒への体罰も、報道によれば
「学校幹部らの見て見ぬふりの中で歯止めを失った」
ことに起因すると伝えられています。
一般に部活では珍しくないとされる体罰ですが、一度それが正当化されてしまうと、とりかえしのつかない悲劇を生んでしまうということを知らしめた事件だと言えます。
指導に体罰を用いる教師は、ミルグラムの実験の表面的テーマとされた
「体罰が暗記学習の成績向上に有効かどうか」
に重ねると
「体罰が運動における成績向上に有効かどうか」
を試していたのかもしれませんが、実はその実験の内面的意図通り、試されていたのは
「教師自身の人間性」
だったとしたら、
「好成績」
という大義名分の前に、自身の人間性を喪失していたことを
「生徒の自殺」
という、取り返しのつかない結果によってよって気付かされることになった訳です。
親鸞聖人は、
「私たち凡夫は、条件さえ揃えばどのようなことでも平然と犯してしまう」
と、遇縁性を生きる私たちの本質を教えておられます。
また、善導大師は
「仏法とは私を明らかにする教えだ」
と説かれます。
今、そのような教えに出遇い得たことを喜び、自分を見失うことのないよう聞法にいそしみたいと思います。