また常陸の下妻という土地には、そのほかにも念仏宗には浅からぬ縁故がある。
それは、親鸞の同門の――法然上人随身のひとりである熊谷蓮生房の親友宇都宮頼綱もその地方の豪族であった。
――そしてその頼綱はまた、蓮生房のすすめで、早くから念仏一道に帰依して、名も実心房といっている。
なお、その実心房以外に、稲田九郎頼重とか、笠間長門守時朝などという関東の武門において名のある人々のうちにも、吉水禅房の帰依者が少なくないので、
(そのむかしの天城四郎が、今では生信房といって、親鸞門下の有徳者になっている)という評判は、民間ばかりではなく、そうした上級にまで、大きな感動を与えながら伝わった。
その結果、
(ぜひとも、親鸞上人を、この常陸へお迎え申したい)
という希望が、声となり、運動となって、やがてついに実現せずにいられなくなったのである。
生信房は、真壁の代官小島武弘から旨をうけて、
「ぜひ、上人をお請(しょう)じ申しあげてこいと、以上のような縁故から、わたくしがお迎えのため、その使いをいいつけられて来たのでございます……何とぞ東国の衆生(しゅじょう)のために、常陸へ御布教を賜わりますように」
と、親鸞に会って告げた。
親鸞は、その機縁に対して、感謝した。
また、そのむかしは郷里からも肉親からも、悪蛇(あくだ)のように指弾されていた生信房に、そういう余徳が身についてきたことを、どんなにかうれしく思った。
「聞けば、よほど宿縁のある地とみえる。ぜひ参らずばなるまい。――この信濃の教化も、後は、佐々木光実と釈了智の二人に頼んでおけばよかろう」
親鸞は、快諾した。
そして、
「わしはまた、明日から、次の新しい荒地を耕やそう。仏の御光のとどかぬ所を、またその法悦を知らぬ衆生を導くのが、この愚禿にふさわしいお勤めでもある」
と、いった。
すぐその翌日だった。
何という身軽さであろう、親鸞は、生信房を案内として、西仏、光実、了智の五人づれで、もう角間の草庵を引き払い、みすずかる信濃を後に――浅間の煙のなびく碓氷の南へ――峠を越えているのだった。
もっとも、佐々木光実と了智の兄弟は、碓氷峠のあたりまで見送って、元の地へ引っ返した。
もちろん、親鸞によって開拓された信濃地方の帰依地をなお培(つちか)い守るためである。
親鸞と生信房と西仏は、間もなく、常陸の下妻にわらじを解いた。
そしてこの地方の――大利根のながれと、赤城おろしと、南は荒い海洋に接している下総境(しもうさざかい)の――坂東平野をしずかにながめ、ここにまだ、文化のおくれている粗野な人情と、仏縁のあさい飢えたる心の民衆を見出して、
(われここに杖を立てん)と、親鸞はひそかな誓いと覚悟とを抱いた。
下妻に、三月寺という、もう荒れ果てた廃寺があった。
彼を請(しょう)じた第一の檀徒である小島郡司武弘が、さっそく、お住居をといって、住院の結構を心配するのを退けて、親鸞は、「あれに住もう」と、廃寺の三月寺を乞いうけて師弟三人が、雨の漏る茅屋根の下に、生活(くらし)を初めた。
*「みすず(三篶・美鈴)かる」すずは篠竹(すずたけ)のこと。篠竹が信濃に多く産するところから、地名の信濃にかかる枕ことば。