1798?〜1871年。
讃岐(香川県)大川郡丹生村土居で農業を行い、明治4年73歳で死去。
『庄松ありのままの記』によれば、
「庄松はつねに縄を編み、あるいは草履を作りなど致し居て、ふと、阿弥陀仏のお慈悲のことを思い出すと、所作を抛(なげう)ち、座上に飛び上がり立ちながら、仏壇の障子を押し開き、御本尊(阿弥陀仏)に向かって、曰く『バーアバーア』」。
これは、無学な貧乏人であった庄松が、子どもが親に甘えるように御本尊に甘えている姿であると言われます。
無邪気というか、純粋無垢というか、何とも名状しがたい信仰ぶりです。
蒸し暑い夏の日のこと、庄松は田んぼから帰るなり、仏壇から本尊を持ち出して、それを青竹の先に結びつけて、軒先に垂らし、そこで念仏を称えていました。
それを見た同行(門徒の仲間)が何をしているのかと聞くと
「親さま(阿弥陀仏)も、これで涼しかろう…」
と平然と答えたそうです。
彼には、他の妙好人にも言えることですが、世間一般の常識は通用しませんでした。
世間の目とか、習慣とは関係のない、ありのままの生一本の時空軸の中に生きていたかのように窺えます。
住職との問答でも峻烈です。
「うちの御堂のご本尊さまは生きてござろうか」
と住職が聞くと、庄松は
「生きておられるとも」
と。
「でも、ものを言われぬではないか」
と畳みかけると、
「ものを仰せられたら、お前らは一時もここに生きておられぬぞ」
と返したそうで、機鋒が鋭すぎて、住職のかなう相手ではなかったようです。
庄松が臨終の床についた時、生涯独身であったため、一人で寝ていました。
そこへ同行の市蔵が見舞いにやってきました。
市蔵は庄松に
「同行らと相談したんだが、お前が死んだら、墓を建ててやるから、あとのことは心配するなよ」
と言いました。
すると庄松は
「おれは石の下にはおらんぞ」
と答えました。
既に阿弥陀仏の本願に救われている身なので、墓石の中ではなく、浄土に生まれることを確信する中から発せられた言葉だと言えます。