1842〜1930年。
本名は足利喜三郎。
鳥取県気高郡山根村(青谷町山根)に生まれる。
家業は紙漉(かみすき)。
昭和5年89歳で死去。
因幡の源左は、一灯園の灯主・西田天香や美術評論家の柳宗悦(やなぎむねよし)などが敬い慕った人物として知られます。
源左は、同行と本山(京都・西本願寺)に参詣したことがありました。
同行が土下座して拝むのを見て、源左は
「親さんの膝元だげなあ、なにもそげに頭を下げでもええだがのう」
また、源左は仏壇の前でよく居眠りをしていましたが、行儀が悪いと注意する人に対して
「親さんの前だげな、なんともない…」
と超然としていました。
源左が土砂降りの夕立にあって、びしょぬれになって寺にきたことがありました。
願正寺の和上が
「爺さん、よう濡れたのう」
と声をかけると、源左は
「有り難うござんす。御院家さん。
鼻が下を向いとるで有り難いぞなあ」
と答えました。
確かに鼻の孔は下についているので、雨水ははいりませんが、普通では考えつかないような言い回しです。
それが、自然の発露のように、ふっと出る、つまり作為的ではないのです。
自然のまま、自然法爾、それが妙好人たる源左の特徴でした。
村役場の職員が源左に
「お前は有名な人じゃで、何が記憶していることがあればいうてくれ。
書き留めておくから」
と聞くと、源左は
「覚えているものがあるけ、書いときたけりゃあ『南無阿弥陀仏』と書いてごしなはれ」
と言ったと伝えられます。
「南無阿弥陀仏」、それは昭和5年2月、89歳で死去した源左のすべてでした。
源左は自身を称して、
「底下の泥凡夫」
といっていましたが、泥土から生えきったものこそ、ほかならぬ蓮華でした。
妙好人の妙好とは、白い清浄な蓮華のことです。
「底下の泥凡夫」
は妙好人となり、その遺薫は、今も馥郁として漂っています。