「真言(しんごん)を採(と)り集(あつ)めて、往益(おうやく)を助(じょ)修(しゅ)せしむ。
いかんとなれば、前(さき)に生(うま)まれんものは後(のち)を導(みちび)き、後(のち)に生(うま)まれんひとは前(さき)を訪(とぶら)へ、連続(れんぞく)無窮(むぐう)にして、願(ねが)はくは休止(くし)せざらしめんと欲(ほっ)す。
無辺(むへん)の生(しょう)死(じ)海(かい)を尽(つく)さんがためのゆゑなり」
これは、浄土真宗(南無阿弥陀仏)をお伝えくださいました親鸞聖人のお言葉です。
特にお聴きいただきたいのは、「前(さき)に生(うま)まれんものは後(のち)を導(みちび)き、後(のち)に生(うま)まれんひとは前(さき)を訪(とぶら)へ」という箇所です。
ここで言われる「前(さき)に生(うま)まれんものは」とは、先にお浄土へとお生まれになられた大切な方々の命です。(先にお亡くなりになられた方々)
「後(のち)に生(うま)まれんひとは」とは、不思議にも命をいただき、今生きているこの私のことであります。
たくさんの命の繋がりがあって、今、この私の命があるということは誰でも知っていることです。
しかし、その命を本当の意味で理解し受けとめ、生きていくことは日々の生活を慌ただしく過ごしている私たちには難しいことなのかもしれません。
ここで肝要なことは、私たちは死んだら終わり・・・死ぬことは悲しみだけを残していくものだ・・・死んだらそれで終わりだからどうでもいい・・・ということではなく、仏様は、どんな命も仏とならせると誓われたということを聴かせていただかなければなりません。
つまりは、亡き方を通して、命の行く末を知らせていただく。
命の行く末とは、先に亡くなられた方々はもちろんのこと、この私も必ずお浄土に生まれて仏となる命を生きているのだということです。
私も含めてですが、「命」を知らされるときはどんな時かというと、近しい方の「死(往生)」のご縁ではないでしょうか。
私自身のことを考えてみましても、祖父母のご縁、先輩や後輩のご縁、僅か35年程の人生でありますが、様々な命のご縁をいただきました。
「悲しみを通さないと見えてこない世界がある」
大切であればあるほど、悲しみは大きくなり、涙があふれでてきます。
しかし、悲しいままに終わらないのが仏教です。
悲しいままに終わらせないと言ってくださるのが仏様です。
悲しみを知るからこそ、命の尊さを知ることができます。
悲しみを知ったからこそ、命の行く末を知らされます。
よく葬儀や通夜の場で聞かれる仏教の言葉に「往生(おうじょう)」という言葉があります。
これは読んで字の如く、生まれ往くと書いて往生です。
亡くなられた方に、なぜ往生というのかと考えてみますと、お浄土へと生まれ往かれたのだと知らされたからこそ、往生と言われてこられたのではないでしょうか。
お浄土へとお生まれになり、仏となっていく命の行く末を知らされることが、命のご縁であります。
そう思うとき、親鸞聖人のこのお言葉が出てまいります。
「前(さき)に生(うま)まれんものは後(のち)を導(みちび)き、後(のち)に生(うま)まれんひとは前(さき)を訪(とぶら)へ」
仏となられた、たくさんの大切な方々は、自らの命でもってこの私をしっかりとお浄土への道を示してくださった。
だからこそ私は、往生されたたくさんの命を通して、仏様のお心を聞かせていただく。
浄土真宗では南無阿弥陀仏(なもあみだぶつ)と唱えます。
ともに涙し、ともに悲しみ、ともに微笑み、ともに喜んでくださる。
決して私を一人にはしないと、いつでもどこでも声の仏様となり寄り添い続けてくださる仏様です。
大切な方を思い合掌(手を合わせる)するその姿、その心こそが、命を知るということです。
見えていなかった世界に気づかされるのが仏様のご縁であります。
南無阿弥陀仏