ご講師:山崎 龍明さん 武蔵野大学名誉教授・法善寺前住職
日々の暮らしの中で、何かと新しい状況が生まれると、また新たな問題が発生します。
私たちが、それをどのようにして乗り越えていくことができるかを説いたのがお釈迦さまの教えです。
お経は、お釈迦さまのお話をのちにまとめたもので700巻あります。
生きるということは大変なことです。
お釈迦さまは「人生は苦なり」と結論づけておられます。
そして、苦しみと苦しみの間、苦しみの色あせない間のことを「楽しみ」と言っておられます。
苦しみがあるからといって後ろ向きに生きるのではなく、その苦しみを何によってどう乗り越えるかということは仏教は説き続けてきました。
仏法では、「自利」そして「利他」ということを主題にします。
「自利」というのは私のさとり、私の倖せということです。
「利他」というのは、私の倖せがあなたの倖せにつながらないようなものは私の倖せではないということです。
この「自利利他」が仏教の根本精神です。
「そんな他人のことを思っていたって生きられませんよ」という方がおられます。
それから「自己責任」という言葉も流行っていますが、この言葉に私はちょっと抵抗があります。
「こちらには何の責任もありませんよ」という意味を含むとても冷たい言い方で、完全ら自と他を切り離したものの考え方です。
「自己責任」という言葉で片づけられると、とても殺伐として気持ちになります。
歴史上の仏さまはお釈迦さまひとりです。
ネパールでお生まれになり、出家して悟りをお開きになりました。
では、阿弥陀如来や盧遮那仏、大日如来などはどういう仏さまなのだろうかと疑問をもたれると思います。
悟りを得られたお釈迦さまによって説かれた仏法上の方々が、阿弥陀如来であり、あるいは盧遮那仏なのです。
阿弥陀如来はどういう方かといいますと、インドの国の王さまだった方が、世自在王仏という仏さまの説法を聞いていたく感動し国を捨てて行じて沙門となり、艱難辛苦の修行をして阿弥陀仏になられたと『仏説無量寿経』に書かれています。
阿弥陀さまは48の誓いをたてられました。
そして、その願いのすべてに共通して「わたしが仏になろうとしたときに、多くの人々が苦しみにあって倖せになれなかったならば、わたしは絶対に仏とはなりません」と書いてあります。
その誓いの始めには、わたしが仏になろうとしたときに、国に「地獄」という極限の苦しみの世界があったら私は悟りを得た仏とは呼べないと言われています。
地獄とは、身近では永遠の殺戮、殺し合い、永遠の争いなどです。
2番目は「餓鬼」です。
どんな状態であっても満足することのできない世界を仏教では餓鬼と説いています。
私はこれを「永遠の欲求不満」と言っています。
もっともっとほしがり、自らが苦しんでいくのが餓鬼の世界です。
3番目の「畜生」というのは、ひとりひとりのリーダーが「進め」というと、みんな何も考えずに突進する本能のようなものです。
全体主義的な支配形態はいつの時代にもあります。
2500年前のこのお釈迦さまの説法は、今日の社会においてもそのまま適用されるものです。