親鸞聖人の著された書物には、経典の言葉や七高僧の書かれた文章が引用されていますが、その際、親鸞聖人はしばしば「読み替え」をしておられます。
それは、経典に書かれている内容や高僧方の所説を単に結論としてそのまま並べられるのではなく、それらの言葉に全身をあげて問いかけられ、自らが聞き取られた内容を言葉の「読み替え」を通して明らかになさったということです。
そうすると、親鸞聖人の教えを聞こうとする人もまた、そこに自らの人生そのものを問う心を持つ必要があるのではないかと思われます。
ところが、私たちはともすれば、自らの問いを持たないままに、既にある「答え」として経典や親鸞聖人の言葉を受け入れ、そこで満足してしまうということがあったりします。
そうなると、自らを教えに問うということはなくなってしまいます。
けれども、教えに何も問うことのないまま自分の握りしめた答えを後生大事に保ち続けるということは、教えに座り込んでしまうあり方にほかなりません。
そして、そのように問い持つことのないまま、ただいたずらに親鸞聖人を讃嘆するというあり方に終始することに満足してしまうと、それはいつしか親鸞聖人を悪魔の位置に置いてしてしまうことにも繋がりかねません。
仏教における悪魔とは「仏道者としての歩みを根底から失わせるはたらき」のことです。
人は問いを持たないあり方に陥ると、姿は仏道者としての歩みをしているかのように見えても、その内実においては自分の得た一つの答えに固執して、その答えから一歩も踏み出そうとすることがなくなります。
そのため、人生の事実からの問いかけに耳を塞ぎ、その事実から何も聞き取ろうとしないあり方に終始してしまうのです。
近年、世界を震撼させている「ISIL( イラクとシリアを中心にテロリズム活動などを行うイスラム過激派組織/自称を訳すと「イスラム国」)のメンバーは、歴史上、最も残虐な手法によるテロを展開しているとされますが、彼らがテロを行う際、「神は偉大なり!」と叫んでいたことが報じられています。
さて、彼らが讃えている神とは、いったいどのような神なのでしょうか。
イスラム教は一神教ですから、神とは唯一絶対の存在で、改めて言うまでもなく、人びとを救う立場にあるはずです。
したがって、その「神」が無差別に人びとを殺した犯人を天国に迎え入れることがあるとは到底思えません。
もし、無差別テロを犯した者を、善きことを成した者として天国に迎え入れる神がいるとすれば、それは無惨に殺された人たちにしてみれば悪魔以外の何者でもないと思われます。
冷静になって問えば、人としてどのような生き方をすべきか自ずと分かるはずですが、独善的な自身の考えに固執し、問いを持たないあり方が、唯一絶対の神を多くの人びとにとって悪魔の位置に置いてしまうことになっているのだと言えます。
では、問いの心を持って教えに自らを問うというのはどのようなあり方なのでしょうか。
善導大師の著された『往生礼讃』の中に「自信教人信 難中転更難 大悲伝普化 真成報仏恩」という有名な言葉があります。
これは
自ら信じ人に教えて信じさせることは難しい中にもとりわけ難しい。
仏の大悲(大慈悲心)を伝えて普く導くことが真の仏恩に報いることになる。
という意味です。
布教の場では「自信教人信」という冒頭の5文字がよく用いられ、自らが聞いたことを他の人びとに伝えることの意義が語られたりするのですが、親鸞聖人はこの中の「大悲伝普化」の箇所を「大悲弘普化」と読み替えておられます。
私たちは、冒頭の5文字に感銘を受け、「自らの信じるところを他の人に教え信ぜしめなくては…」と考えるのですが、親鸞聖人は凡夫である私たちにとって、そのようなことは不可能だと見られます。
そこで、私が仏の大悲を伝えるのではなく、仏の大悲が私の上にはたらき、私の口を通して人びとに念仏の徳が弘まっていくのだと理解されます。
それは、自身の愚かさを深く自覚しておられたが故に、私が大悲を伝えるのではなく、「大悲が私を通して弘まっていくのだ」と読みかえざるを得なかったからだと思われます。
このことを深く自覚しておられことは、
この親鸞は一人の弟子もありません。なぜなら、私が教えて人びとに念仏を称えさせているのであれば、私の弟子といえるかもしれません。けれども、ひたすらなる阿弥陀さまのはからいや導きによって念仏のご縁に遇われた人びとを、「私の弟子」などと申すことは、大変思い上がったことです。
と『歎異抄』に伝えられる言葉からも、十分に窺い知ることができます。
また、天親菩薩は、『浄土論』の冒頭で
世尊(お釈迦さま)よ、私は一心に尽十方無碍光如来に帰命して安楽国に生まれたいと願います
と述べておられます。
「尽十方無碍光如来」とは、南無阿弥陀仏のことですが、天親菩薩は、単にお釈迦さまが「阿弥陀仏(尽十方無碍光如来)」の教えを説かれたから「南無(帰命)」されたのではありません。
「自らが本当に帰依することのできる真実とは何か」を問い、求められた結果、それは「限りない命と限りない光の仏」であることを尋ね当てられた帰依されたのです。
その真実こそが「尽十方無碍」なる「光如来」である南無阿弥陀仏であったというわけです。
私たちは、誰もが日々の生活を精一杯生きています。
ですから、「毎日よくお務めですね」とか、「よく頑張っておられますね」などと言われると、「はい!」と笑顔で答えますが、そのあとに「でも、人間だからいつか死んでしまいますよね」と言われると、その後にはなかなか言葉が続きません。
確かに、私たちは生まれた以上、いつかは必ず死んでしまいます。
そうすると、なぜ私は今こんなに頑張っているのでしょうか。
どれほど財産を築いても、どれほど地位や名誉を高めても、それによって死から逃れられるということはありません。
では、私はいったい何のために日々頑張って生きているのでしょうか。
その問いに最期の時まで答えられなかったら、「空しかった」の一言で、人生の全てが砕け散ってしまうかもしれません。
私たちが、人として問うべき問いに出会うとき、その問いを正面から受け止め、そこに私が人として生まれたいのちの理由に大いなる頷きを与え、そこから力強く勇気を生み出す教えこそ、親鸞聖人が明らかになさったお念仏のみ教えです。
あなたは、「人生の問い」を持っていますか。
また、そのような「問い」そのものを求めていますか。
「問いのない人生は空しい」ものです。
私が問うべき問いとは何か、お考えいただけたら…と思います。