お釈迦さまは、覚りをひらき、仏陀として人々に教えを伝えるようになられてからも、常に問うこころ、問い続けるこころを尊び大切にされました。
それは、迷ったり悩んだりする人々の心を受け止め、その迷いや悩みにどこまでも寄り添って行かれたということです。
そして、その人自身が真実に目覚め、真実に出遇っていくことを強く願われました。
私たちは、自分が生涯をかけて問い続けるべきことは何かということについて、深く考えたことがあるでしょうか。
日々の生活に追われていると、そのようなことを考えることは、なかなかできなかったりします。
けれども、ふと立ち止まり、自らにそのことを問い、やがてそれを見出したとき、私の生涯は確かな生き方と方向性を持つことができるのだといえます。
そして、生涯をかけて問わなければならない問いがはっきりとし、その問いを問い続けていくことのできる道を見出すことができれば、人はどのような状況にあったとしても、常に生きる勇気を持ち続けることができるのだと思います。
ところが、ともすれば私たちは問いよりも既にできあがっている答えをかき集めて知識を増やすこと、言うなれば「学答する」ことをあたかも学ぶことであるかのように錯覚しています。
けれども、もともと学ぶということは、「学問する」という言い方からも分かるように、「問いを学ぶ」ことなのです。
人間として本当に問うべき問いとは何か、あるいは自分が本当に問わなければならない問いとは何か。
その問いを見出し、その問いと共に歩むことが「学問」の本質なのです。
しかしながら、一般に私たちは答えを持っていない者を愚か者だとみなし、そのためあれこれと勉強をして、少しでも多くの答えを身に付けて賢くなることに努めていたりします。
ところが、実はあらゆるものについて答えを持っているというところに、人間としての愚かさがあるのです。
なぜなら、答えを持つとき、しばしば人は本当にその事実には出遇っていないにもかかわらず、あらゆる事柄を既に「分かりきったこと」にし、勝手に決めつけてしまっている答えを判断の基準にして、まわりのすべてを無責任に判定したり評価したりしているからです。
そのため、確かに多くの知識を身に付けることはできたかもしれませんが、しかしそのことによって、反対に人間として身に付けるべき智慧を失ってしまうあり方に陥りがちです。
それを蓮如上人は、
それ、八万の法藏をしるというも、後世をしらざるを愚者とす。
たとい一文不知の尼入道なりというとも、後世をしるを智者とすといえり。
しかれば、当流のこころは、あながちに、もろもろの聖教をよみ、ものをしりたるというとも、一念の信心のいわれをしらざる人は、いたずら事なりとしるべし。
と、指摘しておられます。
あらゆる経典を学んでいても、それを知識の対象とするばかりで、自分の一生の根本問題について無自覚な者を愚者といい、たとえ一文字さえ知らない者であっても、人間としてその生を尽くし死にきっていける智慧を身に付けているならば、その人をこそ智慧あるものと呼ぶことができるのだと教えておられます。
お釈迦さまが、問うこころ、問い続けるこころを尊び大切にされたということは、一人ひとりの人間の生死の事実を何よりも深く受け止めていかれたということです。
私たちのこのいのちは、誰にも代わってもらうことのできない生活の現実をかかえて生きています。
そのため、どんなに辛くても悲しくても、その事実を全身で受け止めていくほかはありません。
そのことをお釈迦さまは見通され、人間の愚かさや悲しさを一切の偏見なしに受け止めと行かれました。
だからこそ、お釈迦さまの弟子たちはみな、お釈迦さまのもとにあって、その教えの言葉に耳を傾けているうちに、自分のありのままの姿がそのまま受け止められていくことを感じ、さらに自分の問うべき問いを見出して行ったのです。
そして、その問いと共に生きて行く中に、この身のままで輝いていくことのできる世界があることを証して行たったのだと思われます。
問うべき問いを求めようとするとき、眼を開けばどこにでも教えへの扉は開かれているのです。