平成29年9月法話『眼を開けばどこにでも教えはある』(前期)

「学ぶは真似る」と聞かせていただいたことがあります。

例えば習字やスポーツなど、お手本や師匠、あるいは憧れや理想とする人物を思い浮かべながら、あの選手のようになりたい、あの先生のようになりたいと目標を持ち、そこを目指して努力を重ねていく。

何事にもまずお手本や所作などを真似するところから学びが始まるのではないでしょうか。

さて私たちは生きていくうえにおいて、何を拠り所としてこの命を歩んでいるでしょうか。

また、仏教徒としてのあり方はどのようなものでなければならないのか。

この度、本願寺第25代門主に就任された大谷光淳門主は、ご親教(ご門主の法話)の中で「念仏者の生き方」と題し、次のようにお示しくださいました。

『私たちは阿弥陀如来のご本願を聞かせていただくことで、自分本位にしか生きられない無明の存在であることに気づかされ、できる限り身を慎(つつし)み、言葉を慎んで、少しずつでも煩悩を克服する生き方へとつくり変えられていくのです。

それは例えば、自分自身のあり方としては、欲を少なくして足ることを知る「少欲知足(しょうよくちそく)」であり、他者に対しては、穏やかな顔と優しい言葉で接する「和顔愛語(わげんあいご)」という生き方です。

たとえ、それらが仏さまの真似事(まねごと)といわれようとも、ありのままの真実に教え導かれて、そのように志して生きる人間に育てられるのです。

~中略~

私たちはこの命を終える瞬間まで、我欲に執(とら)われた煩悩具足(ぼんのうぐそく)の愚かな存在であり、仏さまのような執われのない完全に清らかな行いはできません。

しかし、それでも仏法を依りどころとして生きていくことで、私たちは他者の喜びを自らの喜びとし、他者の苦しみを自らの苦しみとするなど、少しでも仏さまのお心にかなう生き方を目指し、精一杯(せいいっぱい)努力させていただく人間になるのです。』

とご教示くださいました。

私たちはつい自分さえよければ、自分に無関係ならばと、自らのものの見方に陥りやすいものです。

自分が一番かわいいのも当然といえば当然です。

しかし、仏教が最も大切にするところは、そのような自分をこそ問いただすところにあります。

言葉や行動、物事の捉え方、心の奥底など、私を私として形成している私の全てを仏教に問うていく、仏さまの教えに問い訪ねていく生き方が大切となるのでありましょう。

「眼を開けば」というのは、まさに私の一挙手一投足。

身口意全てを通じて仏様の教えに出遇っていく私自身のあり方です。

仏さまの教えをお手本として、まさに仏さまの教えを鏡としながら自らの生き方をただしていくところに、仏教徒の、念仏者の生き方があるのではないでしょうか。