平成29年8月法話『争いの種は私の心から生まれる』(後期)

最近、子どもが好きなテレビ番組の一つに、「ドラえもん」があります。

1970年代から現在に至るまで、テレビや漫画・映画など今でも人気を博していますので、ご存じの方も多いのではないでしょうか。

私自身も小さい頃から見ていたので、子どもよりも真剣に見入ってしまうことも・・・

そんなドラえもんの物語の一つに「のび太の結婚前夜」というファンの間では有名な物語があります。

ある時、主人公のび太君が、ドラえもんと一緒に未来へ行き、自分が結婚する様子を見に行くことになります。

タイムマシンに乗り込み、結婚前日にタイムワープをしました。

ワクワクしながら結婚相手になるしずかちゃんの様子を見に行くのですが、なんとそこで「お嫁にいくのをやめる」としずかちゃんが言い出してしまいます。

のび太君とドラえもんが驚き、どうしようかと困惑していると、結婚をためらうしずかちゃんに、お父さんが語りかけました。

「のび太くんを選んだきみの判断は正しかったと思うよ。あの青年は人のしあわせを願い、人の不幸を悲しむことのできる人だ。それがいちばんだいじなことなんだからね。」

それを聞き、しずかちゃん、タイムワープしてきたのび太君やドラえもんも涙を流しました。

とても素敵なお父さんだな。

こんな風に言える、相手を見ることのできるお父さんになりたいなと思っていました。

私自身も、両親や祖父母、学校の先生などから、相手を敬い、感謝の気持ちを忘れてはいけないことを幾度も聞かされてきました。

そして我が子にもことあるごとに言って聞かせています。

しかし日常、感謝の心で生活をし「人のしあわせを願い、人の不幸を悲しむこと」ということは非常に難しいことです。

みんなが人のしあわせを願い、人の不幸を悲しむことができたとすれば、争いなど決して起きるはずもありません。

よく「他人の不幸は蜜の味」と言われるように、頭ではよくない・不謹慎なことであると解っていても、他人と比較して優越感を感じたり、逆に劣等感を感じたりすることが私たちは度々あります。

そんな気持ちからも解るように、私の方が正しい、間違っていないと自分以外に責任や原因を求めると、関係性が歪みはじめ、争いや諍いの種(原因)となります。

西本願寺の大谷光淳ご門主様が初めて出版された書籍に「ありのままに、ひたむきに」があります。

その中でご門主様は、

「一般に自分の力で修行してさとりをめざす仏教では、他人に利益(りやく)をもたらす行いを「利他行」と言って重視しますが、浄土真宗の場合は、この意味での「行」はありません。

浄土真宗には私たちが今この世で実践する利他行という考え方はないのです。

自分自身が阿弥陀さまと出遇う浄土真宗的な生き方をする中で、自分一人の幸せを考えているだけでいいのかという観点から、自分の内面をしっかりと見つめていくことを大切にします。

いろいろな苦悩や悲しみをかかえている人に対して、私たちがその問題のすべてを解決して助けることはできないにしても、そういう人たちとともに生きていくというところで、社会とのかかわりが生まれてくるものだと思います。

他人の喜びを喜びとし、他人の悲しみを悲しみとする阿弥陀さま。

慈悲の心、見返りを求めない生き方。

まったく及ばなくとも、私たちも少しでもそんな生き方をしたいものです。」

と語られています。

もしかしたら、のび太君は仏さまと、すごく近い心をもっているのでは?と一人心の中で思いながら、なにか温かい気持ちになりました。

どんな生き方ができるのかというと、少し難しいと感じる方も多いかもしれません。

しかし、どんな気持ちで日々を過ごしているかを、ふと考えることは容易です。

ときどきは、自分の内面に語りかけてみることも大切にしたいものです。

南無阿弥陀仏