「善人ばかりの家庭では、争いがたえない」という言葉があります。
一見すると、これは「善人」ではなく「悪人」の間違いなのでは…、と首をかしげてしまうのですが、やはりこれは「善人」です。
なぜ、「善人ばかりの家庭では、争いがたえない」のでしょうか。
ここで、私たちは日頃の生活の中で、自身をどの立場に置いているか考えてみたいと思います。
おそらく、誰もが自分を「善人」の側に置き、「善き者」ととらえているのではないでしょうか。
時に謙遜して、「私は悪人です」とか「愚かものです」などと口にする人がいたとしても、その人も誰かに面と向かって痛罵されたりすると、やはり我を忘れて怒りを露にすることになるのではないかと思われます。
では、どうして正しいものばかりが集まっているはずの社会で、常に争いが起きてしまうのでしょうか。
それは、私たちの一人ひとりが、善悪を判断する物差しを自身の内に持っているからに他なりません。
確かに、私は自分に許しても他人は許せない事柄がありますし、この人には許してもあいつにだけは許したくない事柄もあったりします。
そうすると、いつも自分では「善いことしている」と思っていても、それはどこまでも「自分にとって都合の」ということを前提にした「善いこと」をしているだけに過ぎません。
言い換えると、自分だけのいわゆる「独善」に酔っているだけのことなのです。
そのため、自分を善人と信じて疑わないものの集まっている家庭においては、争いがたえないのも当然のことだといえます。
このように自分を「善き者」と思っている一人ひとりが家庭を構成していると、自分を善人と信じて疑わない者の集まりであるが故に、他を無意識のうちに傷つけたり貶めたりして常に争うことになるのです。
そして、そのような善人の集まりの輪が広がっていくと、民族や国家間の争いが起きてしまうことになるのだといえます。
このような意味で、「争い」とは、その内実においては、善と善とりぶつかりあいだと言うことができます。
そのことを具体的に教えられたのが、保育園での次のようなできごとです。
ある日、子どもたちが自由遊びをしていたときのことです。
保育士が子どもたちに「もうおやつの時間だから、片付けをして手を洗っておいで」と声をかけました。
すると、ブロック遊びをしていた子が、組み立てていた大きなブロックの片付けを始めました。
ブロック遊びをした時は、組み立てたプロックはバラバラにして箱に片づけることになっているからです。
その時、ブロック遊びをしていた子の近くで絵本を読んでいた子が、本棚に絵本を返した後、ブロックを片付けている子に向かって「手伝おうか」と言いました。
ところが、申し出を受けた子は「これは私が遊んだんだから、私が片付ける」と答えました。
日頃から、自分で遊んだものは責任を持って片づけるよう教えられていたからです。
それに対して、手伝いを申し出た子は、日頃から「お手伝いをすることはよいことだ」と教えられていることもあり、「二人でした方が早く済むよ」と言って、ブロックに手を伸ばしました。
すると、ブロックにさわろうとした途端、ブロックを片付けていた子が「やめて!」と言って、その子の手をたたきました。
端からは、どう解釈しても二人がケンカをしているようにしか見えないのですが、一人は自分の責任を全うするために、全部を自らの力によって片付けようとする子。
もう一人は、片付けを手伝おうとする子。
どちらも間違ってはいないし「善い子」なのですが、互いに自らの善を主張するあまり、そこに争いが生じてしまったという訳です。
ともすれば、私たちは「争い」というのは。
「善と悪」、あるいは「悪と悪」とが引き起こしているかのように思っているフシがありますが、少なくとも争っている当事者同士は自らの正しさを信じて疑わないが故に、争っているのだといえます。
例えば、日常誰かと言い争いをしている場面を想定した場合、言い争う中で自分が間違っていることに気付いたときはどのように対処するでしょうか。
素直に謝るか、うやむやにしてそれ以上争うことをやめるかのどちらかだと思います。
私たちは、自分が正しいと思うからこそ、その正しさを主張して争うのであり、自らの過ちに気付いたら、争うことはしません。
親鸞聖人が「和国の教主(日本のお釈迦さま)」と讃仰される聖徳太子は、十七条の憲法(十条)において、
我必ず聖に非ず。
彼必ず愚に非ず。
共に是れ凡夫ならくのみ。
と述べておられます。
これは、私がいつも「聖者=正しい者」であるという訳ではない。
また、相手が必ず「愚者=間違っている者」という訳でもないのだ。
私も相手も共に凡夫なのであって、自己中心的な判断に陥りがちな間違った人間なのだという意味です。
そうすると、争いの種はどこから生まれるのかと言うと、常に「自分は正しい」と錯覚し、しかもそのことになかなか気付き得ない、まさにこの私の心の中から生まれるのだと言えます。
そして、そのような私の自己中心的なあり方に気付かせ省みさせてくださるのが、尊い仏さまのみ教えです。