親鸞聖人のご和讃に「本願力(ほんがんりき)にあひぬれば、むなしくすぐるひとぞなき、功徳(くどく)の宝海(ほうかい)みちみちて、煩悩(ぼんのう)の濁水(じょくすい)へだてなし」とあります。
功徳宝珠(くどくほうじゅ)の南無阿弥陀仏は私を救うことに心を注ぎ、みずからの命をかけて育み、お念仏の中に生かしめようとはたらきかけてくださる仏さまです。
私たちはその仏さまの育(はぐく)みにあって「ありがたや、もったいなや」と朝な夕なにお仏参します。
そして、その姿を一番に喜ばれるのは阿弥陀さまです。
それは仏さまの喜びの涙です。
悲しいときに流れ出るのも涙ですが、人生最高の喜びのときに心の底から止めどもなくあふれ出るのも涙です。
特に母親の悲しい涙を受け止める子どもにとっては、母親の愛情が涙の温かみとともに伝わり、その子の人生の新しい一歩を踏み出す出発点となります。
そして、その子どもの生きざまこそ、親として最高の喜びであり、感涙であります。
「阿弥陀ほとけ」を「涙ほとけ」と歌ったその子の気持ちはともあれ「涙ほとけ」です。
本当にうれしいときに阿弥陀さまを見上げますと、半眼の目がやさしい笑顔に見えますし、辛くてたまらなくて言葉にもならずただ座っていると、そこから涙がこぼれているようにも見えます。
本当に不思議です。
カウンセリングに限りませんが、人が人とコミュニケーションをとるのに、バーバルといって言葉で伝える方法と、ノンバーバルといって言葉以外の表情とか動作によって伝える方法があります。
涙はノンバーバルのコミュニケーションです。
何にもいわないで目にいっぱい涙をためるだけで人の心が動くことがあります。
まさに『涙ほとけ』でしょう。
仏さまのまなざし
私の好きな金子みすゞさんの詩がたくさんあります。
金子みすゞさんの詩の素晴らしさは日本だけでなく、世界にも伝わっていて、いろいろな方がみすゞさんの詩に作曲をしたり、絵を描いたりしています。
その時に、みなさんは「金子みすゞさんの感性はなんと不思議な感性、今まで誰も他の詩人が書かなかった感性」と言います。
でも私は、感性というよりもそれこそ仏さまのまなざしだからだと思うのです。
清水寺の貫主(かんしゅ)さんが
「みすゞさんの『積もった雪』という詩が大好きです。
【上の雪さむかろな、冷たい月が指していて。
下の雪重かろな、何百人も乗せていて。
中の雪さみしかろな、空も地面(じべた)も見えないで。】
中の雪を考えるのは、見えないものを見る目、それは仏さまのまなざし」
と言われました。
最後に私の好きな『梨の芯(しん)』という詩をご紹介します。
【梨の芯はすてるもの、だから芯まで食べる子、けちんぼよ。
梨の芯はすてるもの、だけど、そこらへほうる子、ずるい子よ。
梨の芯はすてるもの、だから、芥箱(ごみばこ)へ入れる子、お利巧(りこう)よ。
そこらへすてた梨の芯。
蟻(あり)がやんやら、ひいていく。
「ずるい子ちゃん、ありがとよ。」芥箱へいれた梨の芯。
芥取爺さん、取りに来て、だまってごろごろひいてゆく。】
昔は清掃車というものがなくて芥取じいさんっていうのでしょうか、そういう仕事をする人がいたのでしょう。
蟻は梨の芯をやんやら引いていきました。
私はそれは『摂取不捨(せっしゅふしゃ)』であると思います。
ひとりもひとりも落とさないのです。
仏さまが「必ず救う、必ず救う」とおっしゃるように、梨の芯も必要なものだからこそあるのです。
蟻たちが見逃さずに喜んで持っていく。
この一匹の蟻の命に目を止め、それをまた素晴らしいことと見落とさなかった金子みすゞさん。
幼い日からおばあさまの膝に乗って、仏さまのお話を聞いて育ったというのが頷(うなず)ける気がします。
皆さんはいろんなご縁でここに集われていると思いますが、生まれて一度もお寺の門をくぐったことがないという人もおられます。
お寺の前を素通りする人をお寺に導くために『御堂さん』という本もつくられています。
どうぞこれからも「生きている、生かされている」という喜びを皆さまの面授直説で、多くの人々に「ああ、よかった」という人生に変えていっていただきたいと思います。