「涙ほとけをおがまなん」(中期)阿弥陀さまだけが分かってくださる悲しみ

私は娘を生後2か月で亡くしました。

急性肺炎でした。

医師も気がつかなかったくらい一瞬のできごとでした。

肺の中に何か入り、呼吸ができなくなりました。

しばらく毎日毎日、何にもしないでお仏壇の前に座っていました。

そのとき母は

「大概のことならあなたの悲しみを分かってあげられるかもしれない。けれど、私は子どもを1人も失っていないからあなたの本当の悲しみは分からない。阿弥陀さまだけが分かってくださる。気のすむまでそこに座っていていいのよ」

と言ってくれました。

一日中、聖典の最初からお経をあげ、ご和讃をあげ、知っている仏教讃歌を歌うという、そんな暮らしをしておりました。

当時、長男が2歳でした。

外から帰ると私の横に座って、らいはいのうた「天人ともに仰ぎ見る・・・」のところになると一緒に称えました。

「ここにつどえる ほとけ子ら くすしき力 あらわして」というところで、愚かですが、私はちょっと待てと思いました。

「ほとけ子ら」ってお浄土には仏さまになったたくさんの子どもがいるのだったら1人くらい行かなくてもいいじゃない、私の子どもを返してほしいと、その歌の8番のところで涙がぽろぽろ流れるのです。

そして2歳の息子はそこに来ると必ず「涙ほとけをおがまなん」と言うのです。

2歳の子どもですから母が泣く涙がそのように見えたのでしょうか。

島根県にお住まいの小笠原研心(おがさわら・けんしん)先生が、布教から帰るバスの中で4・5歳くらいの子どもが『らいはいのうた』を口ずさんでいた様子を本願寺新報のリビング法話に掲載されていました。

その子どもが『らいはいのうた』で「阿弥陀(・・・)ほとけをおがまなん」のところにきますと「涙(・)ほとけをおがまなん」と歌っていたのです。

横にいる母親が間違いを正そうと何度注意しても聞き入れず、ついには自信ありげに「おじいちゃんが涙ほとけでいいや、って言ったもん」と言って、また歌い始める。

母子のやりとりや車中の他の乗客のまなざし、車内全体が温かい雰囲気に包まれた光景を目の当たりにしながら、ふと案外子どもの歌う「涙ほとけ」のほうが何か心に響く宝物ではないか。

私たちは人それぞれに人生の宝物を心に描き、それを求めて日夜苦労しております。

はたして私が求めている宝物が『真実の宝』なのか、それとも『幻の宝』なのか、確かめもしないで、得たと思っては悲しみ、悲喜こもごもの毎日です。

そんな私たちに『これこそ真の宝なり』と教えてくださったものは何でしょうか。