現代は、人間関係が希薄で殺伐な社会だと言われています。
それを象徴するのが、子どもたちに対して「人を信じてはいけない」と教えられているということです。
先月、GW明けにJR越後線の線路内で小学2年生の女児の遺体が発見されました。
よく調べたところ、直接の死因が轢死ではないなど不審な点が多かったことから、殺人事件であることが疑われ、その後、捜査線上に浮かんでいた容疑者が速やかに逮捕されました。
このような悲惨な事件をはじめ、いたいけな子どもたちが様々な被害に遭う事件が頻発すると、その対策として「知らない人から声をかけられても返事をしてはいけません」とか、「知らない人について行ってはいけません」といったことが教えられたりするのは、当然のことかもしれません。
けれども、そこで私たちが決して見失ってはならない大切なことがあるのではないでしょうか。
それは、そこに「人間としての悲しみがあるかどうか」ということです。
子どもたちに「人を信じてはいけない」ということを教えなければならないような痛ましい社会を築いているのは、紛れもなくそのことを教えている私たち大人自身です。
私たちは、はたしてそのことにいったいどれだけの悲しみを抱えているでしょうか。
うっかり大人を信じるとひどい目に遭わされるから、「簡単に人を信じてはいけない」と終えるのは当然のことだとしても、それを教えることで良しとしているならば、やはり大きな間違いを犯しているように思われます。
なぜなら、そういうことを教えられながら育ってきた子どもたちが、やがて大人になって作ったのが、今の人間関係が希薄で殺伐とした社会ではないかと感じられるからです。
また、このような社会を生み出した根底にあるもう一つの要因は、ネット社会になってしまったことではないかと考えられます。
21世紀以降、メールやチャット、SNSなどインターネットでのコミュニケーションが普及してから、それを利用している人びとは、特に対面における会話(意思疎通)が不得手になったといわれています。
確かに、情報を発信したり交換したりすることはとても簡単になりましたが、その反面、人と向き合って会話をしなくなることで、相手の言葉の深意を察したり、感情を読み取ったりすることが苦手になってしまいました。
また、インターネットの普及によって情報や知識の量は豊富になりましたが、だからといってそれに比例して人の心まで豊かになったかというと、必ずしもそのようなことはありません。
例えば、それまで交際していた人と別れる際に、LINEでそのことを告げたり、あるいは会社を退職する際にメールで届け出たりするなど、まるで電源のスイッチをオン・オフするかのように相手との関係性を簡単に断ち切ったりするあり方が見られます。
このように、ネットの普及は、同時に人間関係が希薄化する結果を招いたりもしています。
ところで、私たちはインターネットでのコミュニケーションによって、会話や意思の疎通ができていると思っているのですが、それはできていると思っているだけのことで、実は一方的に情報発信をしているだけにすぎません。
実際には、相手の思いをくみ取るような交流をしているわけではありませんし、相手から発信される情報にしても、自分で勝手に判断してそれで分かったつもりになっているだけです。
しかも、それを交流だと思い込んでいたりします。
そのため、実際に相手と向き合って会話をしようとすると、言葉や表情を通して感情を理解したり、気持ちを推し量ったりすることがうまくできなかったり、あるいは自分の思っていることを相手に分かるように伝えることができなかったりすることがあります。
それは、日頃行っているネットでのコミュニケーションが、単なる情報の発信や受信であって、意思の疎通ではないからです。
私たちは、今ネット社会を生きています。
その影響によって、無意識のうちにコミュニケーション能力が低下し、相手と直接対面して会話をしたり意思の疎通を行ったりすることが苦手になってきています。
そのような中にあって、子どもが悲惨な事件に遭遇したりすると、その情報だけをもとに「知らない人に声をかけられても返事をしてはいけない」、言い換えると「他人を信じてはいけない」といった悲しいことを教えたりしています。
けれども、そのように語りかけている子どもたちが、一人の人間になって行く上で、何が一番大切なことなのか、私たち大人は何を伝えなければならないのか、真剣に考えているでしょうか。
少なくとも、そのようなことを教えなければならないことに深い悲しみを持つということがなければ、これからますます人間関係が希薄で、より殺伐として社会になっていくのではないかと危惧せざるを得ません。