『智慧 自分の弱さと向かい合う勇気』

『正信偈』の中に

「与韋提等獲三忍(韋提と等しく三忍を獲)」

という言葉があります。

韋提(いだい)というのは、『仏説観無量寿経』に登場するマガダ国の王、頻婆裟羅(びんばしゃら)の妃、韋提希(いだいけ)のことです。

経典の説くところによれば、お釈迦さまの説法によって、凡夫である韋提希が三忍を得たと述べられています。

ここで韋提希が得たという

「三忍」とは

「智慧」

のことで、

「喜・悟・信」

の三つの忍です。

また、この場合の忍は

「確認する」

という意味だともいわれています。

最初の

「喜忍」

というのは、信心にそなわる喜びの心です。

次の

「悟忍」

というのは、仏智をさとり迷いの夢からさめた心です。

最後の

「信忍」

というのは、本願を信じて疑いのない心です。

このことから三忍とは、

「他力の信の上に得られた三種の智慧」

という意味に理解されています。

ところで、忍は確認するという意味であり、その確認というのは、認可決定ということで

「はっきり見定める、認める」

という意味だといわれます。

そのため、この忍という字は、認めるという字の意味と同じだといわれています。

けれども、そうであるのなら、喜・悟・信の

「三認」

というように、

「忍」

という字ではなく、初めから

「認」

の字を使えばよさそうなものです。

何もわざわざ

「忍」

という字を使って、この

「忍」

の意味は

「認」

だなどと、面倒なことを言う必要はないように思われます。

にもかかわらず、

「認」

ではなくあえて

「忍」

が用いられているということは、やはりここはこの

「忍」

という字でなければ表すことの出来ない深い意味が押さえられているのだということが窺われます。

ドイツの哲学者ハイデッガーは、

「ギリシア人は知恵を情熱と呼んだ」

と述べています。

人間としての情熱を知恵と呼んだというのです。

この情熱というのは、ドイツ語ではライデンスシャフトと言うそうですが、その元の語源のライデンとは

「耐え忍ぶ」

という意味なのだそうです。

つまり知恵としての情熱というのは、耐え忍ぶ情熱ということだと言うのです。

したがって、情熱というのは、何でも向こう見ずに振る舞うといったことではないのです。

その内実は、耐え忍ぶ力であり、それがたとえ自分にとってどんなに都合が悪いこと、つらいことであったとしても、それが事実である限りどこまでも我が身の事実として引き受けていく勇気。

そういう、事実に立つ勇気というものを知恵といい、情熱というのだと言うのです。

同様に、仏法によって与えられる智慧も、そういう事実に立つ勇気を賜ることだと言えます。

それに対して、事実に立てない弱さを表した言葉が、愚痴(ぐち)という言葉です。

いくら愚痴を言っても事実は変わらないのですが、その変わらない事実に立てない弱さというものから出てくるのが愚痴です。

ですから、愚痴というのは弱さの表れですし、智慧というのは勇気の内実なのです。

この智慧を意味する勇気とは、絶望以上の現実に立つ勇気です。

私たちの人生は、自分の思い通りに行かないことが多く、たとえ私がどれほど絶望したとしてもその事実は何ら変わりません。

また、どれだけ嘆き悲しんでも現実が変わるということはありません。

けれども、その現実に立つ勇気を私たちは賜るのです。

しかし、それは自身の現実を全部ただ認めて、甘んじるということではありません。

勇気において、その現実に立つとき、初めて現実にかかわっていく、そういう歩みが自身の内から促されてくる、これはそういう勇気なのです。

おそらく、このような意味が

「忍」

という言葉にあるのだと思われます。

ですから、決してただ確認ということではなく、智慧を意味しようとするならば

「忍」

という字でなくては、その意味が明らかにならないのだと思われます。

親鸞聖人が

「正信偈」

の中に取り上げられた韋提希という人は、自己の愚かさというものに立って、その人間が人間として生きていく道を尋ねたということが象徴として揚げられているように窺えます。

そこに

「三忍」

という言葉が置かれていることの深い意味が感じられます。

人間の愚かさと悲しさを生き切り、現実を引き受けていく勇気を賜る教え、それが仏法です。

自分の弱さと向かい合う勇気を持つことが出来た時、どのような人生であっても、私たちは十分に生き尽くしていくことが出来るのではないでしょうか。