仏教では、私たちの「迷い」のことを「無明」と言います。「無明」というと、文字の表面からは「明かりが無いこと」と読めますから、暗闇の中では何も見えないように、私たちは何もわかっていないことを物語る言葉のように受け止めてしまうのですが、そうではありません。この言葉を分かりやすく言い換えると、無明とは「すべて分かったつもりの心」ということになります。
どのようなことかというと、私たちは自らの意識においては、何もわからないのではなく、何でも知っていると思い込んでいるということです。端的には、自分の知っていることがこの世界のすべてだと錯覚し、その間違いに全く気づいていないということだといえます。
なぜ、私たちはそのような見方や錯覚に陥ってしまうのでしょうか。近代の歴史は、デカルトの「我思う、故に我あり」という言葉とともに始まったとも言われているのですが、私たちは生きることの根本に、常に「我思う」ということを据えて生きているからです。それは、自分の中に正しい「我」が存在し、その正しい「我」が世の中の様々な物事を見て、考えて、正しい判断を下した上で、正しいことを言い、正しいことをしていると信じているということです。
そのため、自分以外のあらゆるものを疑っても、それらを疑っている自分自身そのものは決して疑いようのないものだと固く信じています。そして、常にその「思い」を持って、自分のまわりのすべてのものをとらえ見ようとし続けています。
このような生き方は、「手さぐりの生活」と言い表すことができます。どのようなことかというと、いま自分のいる部屋の明かりが全部消され、外からの光も遮断されて室内が真っ暗になってしまうと、私たちは自分の目では何も見ることができません。その時にできることと言えば、手さぐりをしながら部屋の中をうろうろすることだけです。そのように、光のないときの私たちのあり方は、手さぐりをしながら生きる他にはありません。
つまり、ここでいう手さぐりの生活とは、自分の体験や知識だけを頼りにし、それをよりどころとして生きていくあり方のことです。そのようなあり方に終始している時、私たちは必然的に物の見方が一面的になってしまいます。そして、自分の体験や知識に執着することによって、ものごとの本質を見抜けなくなってしまうのです。
仏典(「六度集経」)の中に、王さまが「まだ、象を見たことがない」という目の見えない人たちに実際に象をさわらせて、その感触を尋ねたところ、その人たちはそれぞれ「立派な柱のようなもの、箒のようなもの、杖のようなもの、太鼓のようなもの、壁のようなもの、高い机のようなもの、団扇のようなもの、何か大きなかたまりのようなもの、何か角のようなもの、太い綱のようなもの」と答え、「自分の言っていることが正しい」と、言い争いを始めたという説話があります。
この話のように、自らの体験や知識だけを後生大事にかかえ、それを絶対的な尺度にして人生を解釈してしまうと、人生という大きな象の全体像が見えず、一部を触って「象とはこんな生きものだ」というあり方に陥ってしまいます。しかも、手さぐりの生活をしているときは、暗闇の中では自分の姿が見えないように、自分では自身の姿を見ることはできません。迷いの目では、自らのすがたを見ることさえできないのですから、ましてや真実を見ることなど、絶対にできるはずなどありません。
これに対して、仏法の智慧は光で表されます。それは、私たち一人ひとりの誰もがもっている自分の体験への執着そのものを破るはたらきをなすからです。言い換えると、仏法の智慧というのは、あのことも知っているし、このことも知っていると、知識の多さを誇ることではなく、まわりのことがはっきりと見えようになるということだといえます。それはまた同時に、手さぐりしている自分自身がはっきりと見えてくるということです。この「見える」というのは、漠然と周りの光景を眺めたりしていることではなく、それが事実であるかぎり、その事実を事実として受け止め、それにしたがって生きることができるようになるという意味です。
手さぐりの生活をしているときは、どこまでも自分の知識や体験だけがよりどころになっています。そのため、自分では自身をよりどころにしているような気がするのですが、実はそのたよりにしている自身の姿を自分で見ることはできないままでいるのです。
また、私たちはどこまでも真実そのものを見ることはできません。けれども、「人間の目は光そのものを見ることはできないが、光に照らされて我が身を見ることはできる」と言われます。手さぐりの生活をしているときは、そのような自身の姿を見ることもできないまま、自らの体験や知識に執着して生きているのですが、仏法を聴くことによって、私たちはあるがままの自身の姿を知ると同時に、この身の事実に生かされて生きることができるようになるのだと言えます。