2020年9月法話 『迷いの目には真実は見えない』(前期)

小学校の理科の授業でもおなじみ、「観察」という言葉、皆さまにもそれぞれに思い出のある言葉ではないでしょうか。小学1年生の夏休みの課題といえば、アサガオの観察が定番でした。

辞書にも「物事の様相をありのままにくわしく見極め、そこにある種々の事情を知ること」と説明されるように、植物の生長や自然現象等の記録や経過を事細かに見ていくことの意味として多くの方々が知るところです。

この観察という言葉、元来は仏教に由来する言葉の一つで、仏教では「かんざつ」と読みます。お釈迦様の言葉に、

『修行者たちよ、それゆえに、自らの心をしばしば観察しなければならない。 この心は、長いあいだに「貪(とん・貪り)」、「瞋(じん・怒り)」、「痴(ち・愚か)」に汚染されていると。修行者たちよ、心が汚染されることによって、諸衆生は汚染され、心が清められることによって、 諸衆生は清められる。』【『相応部経典』】

とあります。

私たちはついつい自分本位の心で物事を見たり感じたりしてしまいます。自分のその時の感情や喜怒哀楽、あるいは欲や煩悩による心の有り様がそのまま自分の態度や言葉、生きる姿となって現れ出てくるものです。この自分中心にしか生きられないわが身の姿を仏教では「無明」や「迷い」と呼び、その自己の姿に正直に目を向け、生き方を正し、まさに心を正しく保ち、観察し続けていくところを仏道として、私たちの仏教徒としての歩みがあるのではないでしょうか。

しかしこのことはそう容易なことではありません。心の感情はその状況により刻一刻と変化し、知らぬ間に色々なことを思ったり感じたりするのは当然であるので、心を一定に保つことは大変困難なことです。けれども私たちの生きる姿や性格というものには、心の持ち方が大きく影響していることも知っておかなければなりません。

ただ心の向くまま自分本位の感情にまかせた生き方は、自分では気がつかなくてもどこかかで誰かを傷つけ、どこかで耐えがたい思いを抱かせているかもしれません。その自分の心を油断せず見張り、仏教を拠り所として心をいつも観察する姿勢は忘れず大切にしたいものです。