東京オリンピック考

賛否両論があった中、先月東京オリンピックが開催されました。また、下旬からはパラリンピックも開催されました。東京に非常事態宣言が発令される中で始まり、開催中に連日感染者数がそれまでの最多を更新したことで、首都圏の神奈川・千葉・埼玉にも緊急事態宣言が発せられるという異常な状況下で、しかも大半の競技が無観客の中で行われるという異例の方式での開催となりました。

そのため、ふと「こんな状況下でも開催することができるのなら、むしろ昨年予定通りに開催した方が良かったかもしれないな」などという思いがよぎりましたが、とにもかくにも先のことなど誰にも分からないものです。おそらく昨年の状況下では、誰もが「延期やむなし」と思っていたのではないでしょうか。なぜなら、昨年はまだワクチンが開発中で、しかも未知のウイルスということでなかなか有効な対策を打つことができていなかったからです。

そのため開催の一年延期を余儀なくされたのですが、今年はワクチンの国内接種も始まり、これまでの知見からある程度、対処の仕方も確立されてきたことから、諸般の事情も考慮して開催されることになりました。そして、いざオリンピックが始まると、日本人選手の大活躍によって、それまで声高に叫ばれていた「大会中止」の主張はかき消され、感染者数が最多を更新しても、連日のように報じられるメダル獲得の知らせに人々は歓喜し、したがってオリンピックの「途中打ち切り」については、開催前のように論議がわき上がるということはありませんでした。

ところで、もし開催を見送っていたらどうだったのでしょうか。オリンピックが始まってから感染者数が爆発的に増加しましたが、それはオリンピック開催の有無とは直接的な関係はほとんどありません。つまり、オリンピックを開催してもしなくても、新規感染者数は感染力の強いデルタ株の蔓延により記録的に増加していたということです。また、オリンピックのほとんどの競技は無観客で行われましたが、普通に考えて会場で観戦するのは多くても数万人程度で、圧倒的多数の人がテレビの前で競技を見ているのです。そういう意味では、むしろ開催したことで、その期間中は外出せず家に居る人を増やす効果があったと言えるかもしれません。

思えば、昨年の春から新型コロナウイルスの感染によって、常にマスクをすることを強いられる生活が始まり、外での飲食や旅行などの娯楽が幾度となく制限され、心の中にはいつ晴れるともしれない暗雲が立ち込めているかのような重苦しさの中を過ごしてきような感があります。そのような中に、オリンピックが開催され、この一年の間、様々な葛藤を抱えながら精進を重ねてきた日本人選手が、連日大活躍する姿を見せてくれたことで、厚い雲の隙間から光が差し込んできたかのように感じた人が多かったのではないかと思います。

感染症の問題については、依然として先行きは不透明ですが、開催の是非について賛否両論ある中での開催となったものの、一つだけ言えることは、開催したことによって、日本人選手の活躍を通し、それぞれ何か感じとることができたのではないかということです。もし開催を中止していたら、多くの感動を味わうこともなかったし、相変わらず心の中には暗雲が立ち込めていたのではないかと思います。とはいえ、将来「あの時、オリンピックなど開催しなければ良かった」と批判されることがあるかもしれません。

けれども、昨年の緊急事態宣言が発令されて以降、毎年のように行われてきた様々な行事、催しなどが相次いで中止されてきました。これまで、毎年いろいろなことを主催してきた者としては、それらを「中止」することは予定帳からその項目を削除するか「中止」と書き込めば終わるので、当たり前のようにしてきた「企画⇒準備・案内⇒実行⇒反省」を何一つしなくてもよいのですから、正直とても楽でした。

その一方、「コロナ禍が収束した後、またこれまでと同じように再開できるだろうか?」と自問すると、パソコンなら電源を入れれば容易に再起動することができますが、生身の人間ですから一度楽な方に流れ、今年もその流れに載っているので、再始動には一抹の不安を覚えます。

そのようなことから、オリンピック開催の有無の是非を天秤にかけると、私の心の中の天秤は「有」の方に傾いています。

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