数年ほど前から顕著になってきたキャンセルカルチャーという動きがあります。これは、著名人をはじめとした特定の対象の発言や行動を糾弾し、不買運動を起こしたり放送中の番組を中止させたりすることで、その対象を排除しようとする動きのことです。
このような動きは、アメリカなどを中心に2010年代中頃から見られるようになりました。これは、あるコミュニティにおいて構成員が犯した悪事を特定し、その人物を公的に呼び出して過ちを徹底的に糾弾することによって、恥じ入らせたり罰したりする行為を指す 「コールアウトカルチャー」の一種で、「You are cancelled(あなたは用無し)」と言って相手を切り捨てる、いわばボイコットのような現象です。
例えば、奴隷制や人種差別に関わりのある歴史的人物の銅像を破壊したり、「Defund the Police(警察に資金を出すな)」という主張に否定的な意見を述べる人のキャリアを終わらせようとして圧力をかけたりするものがあったりします。具体的には、スポーツメーカーのナイキが「差別」をテーマにした動画を公開したことで不買運動が起こったり、Amazonが国際政治学者をCMに起用したところ、Twitter上で「#Amazonプライム解約運動」というハッシュタグとともに、出演タレントの過去の発言への批判が投稿されたりするということもありました。
このような動きを拡大させているのが、SNSの仕組みです。以前なら、大きな問題にならなかったような事案であっても、ハッシュタグ#やリツイート機能を使えば、瞬く間に問題が世間に広がるようになりました。そのため、かつてはニュースを発信するのはテレビ局や新聞社などに限られていましたが、SNSの普及によって、今や誰もが簡単にニュースを発信することができるようなり、人々が容易にキャンセル運動に参加できるようになったのです。
こういう流れの中で提起されたのが「私も」を意味する「#MeToo運動」です。これは、今まで沈黙することを余儀なくされてきた問題を多くの人が公表することで、世の中を変えていこうとする動きから生まれたハッシュタグです。「沈黙することを余儀なくされてきた問題」とは、具体的には性的被害です。世の多くの人々に対して、この問題に目を向けてもらおうと、セクハラや性的暴行を受けたにも関わらず、沈黙することを強いられてきた人たちが、SNSという現代のツールを利用して被害を告白し始めたのです。
この運動は、ハリウッド女優を始め、著名人が発信を始めたことをきっかけにメディアでも話題になりました。
#MeToo運動が注目されるようになったのは、アメリカで活躍する歌手・女優のアリッサ・ミラノさんの
・「セクハラや暴力を受けた場合は、このツイートへの返信として「私も」と書いてください。」
¦「友人の提案。セクハラや性的暴力を受けた全ての女性が、『私も』と投稿すれば、人々にこの問題の深刻さを知ってもらえるかもしれない。」
というツイートがきっかけでした。このツイートがなされたのは2017年のことですが、4年を経た今でも全世界で#MeTooのハッシュタグの ついたツイートが依然として投稿され続けています。
その一方で、キャンセルカルチャーは、その攻撃性と不寛容さがエスカレートして、自分と異なる意見の人を沈黙させ、率直で自由な議論ができなくなってしまう現象を生み出すようになってきたことが大きな問題点として挙げられています。端的には、糾弾する側の人が自身の価値観に基づく一方的な正義を振りかざしていることに無自覚だったり、その主張が極めて限定的で多くの人々の共感を得ていなかったりする場合も少なからずあるのです。
先月の東京オリンピックでも、このキャンセルカルチャーによって、開会式の直前に開会式のディレクターを務める小林賢太郎氏が組織委員会から解任されました。
事の経緯は、ネット上の切り取り動画を見たツイッタラーが、開会式のディレクターを務める小林賢太郎氏が過去にホロコーストを揶揄するコントをしていたと、中山防衛副大臣に報告したことに始まります。中山防衛副大臣は、このことを独自の判断で国の有力ユダヤ人人権団体『サイモン・ウィーゼンタール・センター』(SWC)に報告し、国際問題に発展させました。その結果、この事態を重く見た組織委員会が小林氏を解任させたのですが、果たしてこれは妥当な対応だったのか疑問に思われます。
なぜなら、このコントは23年前のものであり、その内容もホロコーストを肯定する意味ではなかったと伝えられていますし、この問題についてイスラエルの新聞社『Haaretz』のウェブ媒体が掲載したコラムでは、小林氏を擁護しているからです。その中で執筆者は、イスラエル国内でもホロコーストに対するジョークはあり、ネット上ではそれに「いいね」が多く押されているような現状を紹介。そうしたうえで、世界で広がっている今回の解任劇のような「キャンセルカルチャー」を、新型コロナウイルスよりも酷いと揶揄。「まともなユダヤ人は1998年の冗談など気にしないと声を上げる必要がある」と説いています。
日本国内では、小林氏の解任直後、ワイドショーなどでコメンテーターが、「許される発言ではない」「海外で大問題になる」などと述べていました。解任理由となったのは、1998年にリリースされたお笑いビデオ『ネタde笑辞典ライブ Vol.4』のコント内で、「ユダヤ人大量惨殺ごっこ」というフレーズを使っていたことですが、これはコントの主題でもなんでもなく、「言ってはいけないこと・やっちゃいけないこと」の例として出しただけで、肯定するようなメッセージ性はなく、政治的・社会的な意図もまったくありませんでした。
そのため、アメリカ合衆国でも過去の言動を引きずり出し、今の仕事を奪う風潮は世界的に大きな問題になっていますが、今回の件に関しては、23年前のVHSでしか見られないコントの一部で、『やってはいけない』ことの例としてホロコーストを出したことが歪曲され、批判されているのですから、小林氏の解任劇は『いきすぎたキャンセルカルチャー』だと批判され、呆れられています。
アメリカ合衆国の三大ネットワーク「NBC」ニュースでこの解任報道を扱うと、公式YouTubeのコメント欄やツイッターには、海外ユーザーからは
《20年前に言ったことを文脈から外して解雇するなんて、この世界はおかしいよ》
《ホロコーストを扱ったことは確かにダメだが、過去の軽い冗談が今の仕事から降ろされる理由になるはずがない》
《刑事事件にも時効があるというのに、このキャンセルカルチャーはなんともばかげている》
《20年前のことで解雇するのはいきすぎたキャンセルカルチャーでしかない》
《1998年のコメディーで解雇? 今は1999年なのか?》
《1998年に作ったジョークで、2021年に誰かを解雇することがどれほど愚かであることかに焦点をあてれば、このおかしさがわかるはずだ》
といった批判的な声ばかりがあがっています。
過去の発言・不祥事で現在の仕事が奪われる「キャンセルカルチャー」は、現代が「不寛容な時代」になってきていることを象徴しているように思われます。