誰にでも何気ない日常には幸せがあります。例えば、スヤスヤと眠る子どもの寝顔を見た時、日々家族が作ってくれるあたたかいご飯、誰かからかけられた優しい言葉等など、それなのに何気なく過ごしているとその一つひとつを当たり前のこととして感動もなく過ごしているのが私たちではないでしょうか。しかしよくよく考えてみて、当たり前ではなかったと気づかされる時、私の日常の彩りが深まります。さらには、いのちの源に思いを馳せますと、当たり前ではない究極なことは、今生きているということ、私が今ここに存在しているということなのかもしれません。
祖父の言葉をふと思い出します。『朝、目が覚めて鳥の鳴き声を聞くと 今日もいのちいただいたなぁ 有り難かな 不思議じゃな』と。
その頃私は20代前半であったせいか、言っていることは分かりますが、もうひとつピンとこないというか、そこまで感じることも意味を味わうこともできませんでしたが、あれから何十年の齢を重ねてきて、今ほんのの少しだけその言葉の深さに気づかされます。
たしかに、眠っている時にはすべてを投げ捨てて眠っています。自分の心臓ながら自分で動かしているわけでもない。肺を自分で動かしているわけでもない。眠っている時は特におまかせです。しかし目がさめてみたら、気づいたら朝。まさしく生きているのではなく生かされてあることの不思議さに気づかされます。私が分かろうとも分からなくとも、大いなるいのちによって支えられ、縁によって生かされていることは紛れもない真実です。そこに気づかせていただきますと、生きているということ自体がよろこびであり、いのちは無条件に尊いと言えましょう。
そう、“私は今ここに生きている、生かされている”