「死」
にともなう葬儀に関する一連の儀礼には、実に様々な迷信や俗信があり、しかもそれが世間一般においては深く浸透しています。
これらの迷信や俗信は、
「死は穢れ」
という考え方から起こったものが大半であり、
「清め塩」
もそのひとつです。
「清め塩」
をまくという行為は、
「死の穢(けが)れ」
を清めるためだとされています。
けれども、それでは
「亡き人は穢れたもの」
ということになります。
もちろん、葬儀自体も穢れた儀式となってしまいます。
生前に親しかった人やご縁のあった方を、亡くなった途端に
「穢れたもの」
として扱い、それを
「お清め」
しようとする事は全く道理に合わず、とても痛ましく嘆かわしいことです。
このような誤った考え方から起こった習俗は、その他にもいくつかあります。
死の穢れを他に及ぼさないように広く知らせる意味で
「忌中」
の札を家の入り口に貼ったり、異常さを示して死を忌(い)み遠ざけるために逆さ屏風やご飯に箸を立てたり、また死者に対しても
「再び戻ってきて災いを起こさないように」
というような意味で、どこに連れて行くのか分からないようにするために亡き人の方向感覚を失わせようとお棺を何度も回したり、出棺に際して故人の茶碗を割ったり、火葬場への行き帰りの道を変えたりするなど、それらの行為は挙げればきりがありません。
本来、仏教はそのような自己中心的な発想で死を
「穢れ」
や不幸災難の元凶のように扱ったりはしません。
身近な人の死という現実の中で、死という事実を静かに受け止め、深く考え見つめていく事が、今、ここにこうして生かされて生きている私の責任であり、人間としての大切な生き方であると教えてくれます。
浄土真宗では御門徒の皆さま方のご理解もあり、
「清め塩」
はほとんど見られなくなりました。
何につけても、
「決まり事」とか
「世間がそうであるから」
ということで流されるのではなく、
「聞法」
中心とした中で、お互いに考えていけたらと思います。