1801〜1860年。
享和元年(1801年)に六連島で生まれました。
少女時代からおてんばぶりを発揮し、娘時代には気性の激しい男まさりの性格で、六連島の青年たちは“お軽のところには養子に行ってはならない”と言い合っていたといわれます。
やがて19歳になって、幸七という28歳の青年を養子として迎え、お軽は貞淑な妻に変身。
懸命に夫に仕えましたが、夫婦に破局の訪れるのは早く、下関や北九州に野菜の行商に出た夫の幸七に愛人ができ、お軽は嫉妬に怒り苦しむことになりました。
この夫の浮気が逆縁となり、お軽は島に唯一ある西教寺の現道住職を訪れるようになりました。
「幸七さんの浮気はあんたのためにはかえって良かった」
「良かったとは何ですか!」
「こんな事がなければ、あんたは仏法を聞くような人ではない。
だから“良かった”のじゃ」
こんなやりとりの後、お軽は熱心に聞法するようになりました。
歳月が流れ、すでに35歳になったお軽は、風邪がもとで生死の境をさまよった病床で自分の無力さを痛感し、如来の慈悲がしみじみと味わえるようになりました。
そして、この頃から、お軽の口から信心の喜びが次々と歌となって生まれてきました。
文字は一字も読み書きできないお軽は、歌が思い浮かぶと西教寺へかけこんでは現道住職に筆録してもらい、奉公にでている子供たちにもその歌を送りました。
やがて夫の幸七や6人の子供たちも、そろって法座に参詣するようになり、なごやかな念仏一家をつくりあげていきました。
お軽は56歳のとき、コレラであっけなく最後を遂げましたが、息を引き取る数か月前に歌を残していました。
亡きあとに軽を尋ぬる人あらば弥陀の浄土に行ったと答えよ
六連島では、お盆の三日間は、夜を徹して盆踊りが行われているといいますが、その中に
「法悦踊り」
というのがあります。
お軽の歌が今も
「盆踊り歌」
となって歌いつがれているのです。