したがって、
「至心・信楽・欲生」
の三心はすべて阿弥陀仏の心であって、阿弥陀仏が衆生を救おうとしている本願が、南無阿弥陀仏であり、
「至心・信楽・欲生」
という心になるのです。
そのため、この願心には、疑蓋(煩悩)が雑わらないのです。
ところで、この
「疑蓋無雑」
という言葉を今日真宗学ではどのように解釈しているのかというと
「衆生が阿弥陀仏の心を疑いなく信じる心」
だと解釈しています。
けれども、親鸞聖人の著述を読むと、親鸞聖人は決してそのようなことを述べてはおられません。
「疑蓋」
というのは煩悩のことです。
疑いの心があたかも蓋(ふた)のように真実を覆っているということにたとえたものですから、煩悩の意味に理解すれば良いのです。
凡夫は、臨終の瞬間まで煩悩を持っているのですが、その心の中に阿弥陀仏の心が徹入してくるのです。
阿弥陀仏の大悲心が、一切の障害を破って、私たちの心に入ってくる、これが南無阿弥陀仏です。
したがって、阿弥陀仏の大悲心は、念仏する凡夫の煩悩を全く問題にせず、煩悩の心の中で光り輝いているということが、
「疑蓋無雑」
という言葉の意味になるのです。
ところが
「疑蓋無雑」
を人間の心として解釈してしまいますと、親鸞聖人の意図と大きくずれてしまうことになります。
「疑蓋無雑」
とは、阿弥陀仏の
「至心・信楽・欲生」
の心であって、その心が人間の心を破るのです。
人間の煩悩のために汚されず、その輝きを失わない、いかなる煩悩をも問題にしないで輝いている、阿弥陀仏の輝きを示している言葉なのです。
そうしますと、第十八願に誓われている三心と十念は、いずれも阿弥陀仏の心であり、阿弥陀仏の言葉だと理解するのが、親鸞聖人の第十八願の解釈だと言えます。
そこで問題になるのは、私たちが第十八願をどのようにとらえているかということになります。
第十八願は私が往生するための願であり、私達自身の往生の正因を示す願です。
そこで、私たちは私の往因願として、私の側から第十八願をとらえているのですが、親鸞聖人はそうではなく、それを逆転させて、第十八願を阿弥陀仏が私を往生せしめる願ととらえられます。
私たちは、自身が往生する願ととらえているのですが、親鸞聖人の第十八願の解釈は、至心も信楽も欲生も。
そして乃至十念までも阿弥陀仏の側でとらえられ、阿弥陀仏の大悲心のはたらきそのものとして、第十八願の願意が説かれるのです。
そこで、そのような見方からすれば、第十八願の全体が、救いの道理の必然性、いわゆる必ず衆生がそのようになるという、必然の道理を親鸞聖人は阿弥陀仏の側から見ていかれることになるのです。
(13)至心信楽の本願の文大経に言はく。
「設我得仏、十方の衆生、心を至し信楽して我が国に生れむと欲ふて乃至十念せむ。
若不生者、不取正覚、唯除五逆誹謗正法」(「教行信証」)
(14)無量寿如来会に言はく。
「…諸の有情の類、我が名を聞き、己が所有の善根心心に廻向せしむ・我が国に生れむと願じて乃至十念せむ。…」(「教行信証」)
(13)と(14)は『無量寿経』と『如来会』の第十八願の文なのですが、そこでこの
「心を至して信楽してわが国に生ぜんと欲ふて乃至十念せむ」
という衆生の姿を、衆生が必ずそのような心になるという阿弥陀仏の願意として、親鸞聖人は受け止められたと考えるべきだと思われます。
そういうことからしますと、親鸞聖人の第十八願の解釈は、阿弥陀仏の大悲心の躍動を常に阿弥陀仏の側から見ておられるという点を見落としてはならないということになります。