真宗の救い

無条件の救い

浄土真宗の救いは「無条件の救い」であるといわれます。『阿弥陀如来は無限に迷っている私を無条件で救う』これが親鸞聖人(以下、宗祖)が明らかにされた教えの中心です。

けれども、この無条件ということが、私たちにはなかなか理解できないのです。真宗で「無条件の救い」というようなことを言うと「それならなぜ念仏するのか」とか「なぜ教えを聞く必要があるのか」「なぜ行や信について細やかなことを言うのか」と尋ねられることがよくあります。そういうことをするのであれば、やはり無条件の救いとは違うのではないか、という批判が寄せられるのです。

けれどもこのような質問は、実は質問そのものが根本的に誤っているとのだといえます。言い換えると、救いとはどういうことなのかよくわかっていないといわざるを得ません。本来「救い」とは、簡単にいうと自分が悪い状態にあると自覚している人が良い状態になることを求めることです。そのような意味で、このような質問をする人は、まだ救いが必要でないような良い状態にあると思っている人だといえます。そこで無条件の救いについてあれこれ議論する余裕がある訳です。しかし、これが普通一般の私たちの立場かもしれません。

人生が良好であるときは、多くの人は自分には救いなど必要ない、宗教は困ったり年老いた時にかかわるものだと考えているようです。そこで人生の危機や最悪の事態に遭遇すると、まるで別人のように神仏に救いを求めて右往左往してしまうことになるのです。事業に失敗する、不治の病にかかる、交通事故で最愛の人を亡くす、など悲惨な状況に陥ると、宗教など必要ないと言っていた人が、それまで軽視していた迷信に陥ってしまうことさえあります。

無条件の救いとは、人が最悪の状況におかれたとき、はじめて意味を持ち、光を放つのです。ところで、その人生の最悪の事態とは、先に述べたような事柄だけをいうのではありません。むしろ何ごともない平穏な私たちの人生そのものが、実は最悪の状態にあるといわなくてはならないのです。周知の通り私たちは必ず老い、病いにかかり、最後には死を迎えます。

まさに人生とは、すべての幸福が破れて最後に死があるという、みじめな最悪の状況のなかを生きていくものなのです。お釈迦さまはそういう人生の相を、まだ若いうちに見極められて、その苦を超える道を求められたのですが、残念ながら私たちはそのように真実を見通す眼を持ってはいませんので、悲しい人生の実相には気づき得ないのです。そうしてただその日を安閑と暮らし、ある日突然、死を迎えることによって慌てるのです。

ですから、先に挙げた人生上の危機とはそういう安閑とした生活をしてきた私たちが、人生の真相にめざめる一つの契機となるものです。しかし、それはあくまでも人生上の起伏というようなもので、そういう出来事があろうとなかろうと、私たちは等しく最悪の状態におかれていることに変わりはありません。

では「無条件の救い」とはどのようなことなのでしょうか。これは二つの観点から考えればよくわかります。一つは「救う側」からの見方です。ここでは大悲の無限性が明らかになれば良いのです。たとえば「摂取」という言葉があります。宗祖はこの「摂」という字に「逃ぐるものをおわえとる」という読み方を記しておられます。これは、真実に背を向けて生きている人間に対して、如来は常に先回りをして真実の道から逃げようとしている人間をつかまえる、それが「摂」という字に示された如来の大悲だといわれます。まさしくここに「無条件の救い」の一つの本質が見られると思います。

「無条件の救い」のいま一つの観点は、「救われる側」からの問題です。ここで最も重要なことは、救われる者はその大悲にはからいをもつなということです。如来が大悲をもって救おうとされるときに、救われる側が救って欲しいとその救いを掴みにいくと、その如来の大悲性は消えてしまうのです。ですから、救われる者は大悲に対してはからいを持ってはならないのです。「はからい」というのは、言葉をかえれば自力の執心です。そういうものを救われる側がもっていると、如来の大悲に真の意味でふれることができないのです。

救う者は無条件で救う。救われる者はこの救いに対して、なんのはからいももってはいけない。こう言われますと、面白いことに私たちは今度はこのはからいをもたないことが、救いの条件であるかのように思ってしまいます。それ故ここでもう一度無条件ということを問題にしたいと思います。私たちの迷いの姿は「行に迷い信に惑っ」て臨終の一念まで「心昏く識り寡く、悪重く障り多きもの」です。言うなれば、どこまでも自力の執心を持ち、はからい続けている者なのです。

救う者は無条件で救う。救われる者はこの救いに対して、なんのはからいももってはいけない。こう言われますと、面白いことに私たちは今度はこのはからいをもたないことが、救いの条件であるかのように思ってしまいます。それ故ここでもう一度無条件ということを問題にしたいと思います。私たちの迷いの姿は「行に迷い信に惑っ」て臨終の一念まで「心昏く識り寡く、悪重く障り多きもの」です。言うなれば、どこまでも自力の執心を持ち、はからい続けている者なのです。

これが私たち凡夫の偽らざる姿です。そうであれば、そのような凡夫に「はからいをもってはならない」「はからいをもつな」などと説いて、果たしてそれが実行できるかどうかが問題になります。努力して救われようとするよりも、かえって「はからいをもたない」という心を得る方が、はるかに難しいことになるのではないでしょうか。ですから、この無条件の救いとは、「私にとって無条件の救いとは何か」ということを問題にすることではないと思われます。

これまで一般に説かれている「無条件」の説明では、概ね私が無条件で救われるためには、どうすれば良いかということを中心に語られているようです。けれども、そのような意味で「無条件」をいくら説明しても仕方がありません。なぜなら、今度はその無条件を作り出そうとする行為が、そのまま条件になってしまうからです。では、一体どこに間違いがあるのでしょうか。

それは、やはり私自身が無条件を求めているところに問題があるのです。そこでこの問題意識を、一度逆転させて考えてみるとどうなるでしょうか。救われる者に、もし一つ条件が課せられていたら、私はどうなるのでしょう。つまり、無条件で救われるためには、私はどうすれば良いかを考えるのではなく、私が救われるときに、もし何か一つ条件が課せられているとすれば、どうなるかということを考えてみると良いのです。

最愛の人に突然死なれた。信頼していた人の裏切りにあって事業に失敗し、貧困のどん底につきおとされた。不治の病におかされている。老いの寂しさの中にひたひたと近づく死の足音を聞く。そういう最悪の場において、もし救いに条件がつけられていたらどうなるでしょうか。深い悲しみの中にあるのに、喜びと感謝の心で称える念仏でなければならない。病気の苦痛にのたうちまわっているときに、はからいのない清浄な心で念仏を称えよ。

もしそのように、なんらかの条件がつけられていたら、私にとっての救いはあり得ないということになります。凡愚とは本来的に、いかなる条件も満たし得ない者なのです。だからこそ如来は、この凡愚を無条件で救うと誓い願われているのです。

私たちにとって重要なことは、何よりもまず自分の真実の姿を本当に知ることです。最悪の場に至ったら、なにひとつ自分ではどうにもできない凡夫であることを知ることです。そして、特に注意したい点は、その凡愚性を人生のさまざまな非常の場に遭遇する以前に、しっかりと信知しておくということです。私たちは常に、いますでにそういう最悪の場に生きているのだということを知らなくてはなりません。というのも、ひとたび非常の事態に陥ったときには、私たちはただうろたえるばかりで、冷静に自分の姿を見つめたり、如来の真の救いを考える暇など、全くあり得なくなってしまうからです。

欲望的次元の甘い救いの言葉を信じ、見境なく迷信・俗信にしがみついて、占いや祈祷に走ってしまうのです。そのような状態に陥れば、どれほど無条件の救いが私に来ろうと、私たちにとってその大悲は無縁なものになってしまいます。そして、せっかく阿弥陀仏が無条件で私を救うという大悲を示していて下さるのに、その本願に気付かないまま、いたずらに右往左往して、結局最後に空しく死を迎えていくのです。

私たちが捉えている自分自身をもし分類するとすれば、およそ三種類に分けることができるのではないかと思われます。第一は「自分の中に善の可能性ありと認めている人」です。このような人は、往々にして自分と他人と比べて自分の方がましだと思い、自分の行に励んで、自ら仏になろうとします。傲慢なる自己の持ち主とでもいうべきでしょうか。第二は第一の人の裏返しで、「自分は愚かでくだらない人間だとして、悪の中に酔い潰れひらきなおって悪ばかりしている人」だといえます。そして第三は、この二人の中間に位置する人で「自分の姿を恐れながら、何かにしがみつこうとしている人」です。自分を善人だと見る人、劣等者と卑下している人、それからその中間に位置して神・仏にしがみついている人。このような三種類の人間を見ることが出来ます。

しかしこれらの人々は、結局どの人も自分の本当の姿を知らないで迷っている人だといわなくてはなりません。宗祖は、法然上人に出遇われることによって、自分もそのような人間の一人であったことを知るに至られます。そして、このような迷いの中に生きている自分を、如来が無条件で救って下さるのだということを法然上人から教えられたのです。それが「総序」の「ああ弘誓の強縁」という叫びになるのです。これまで迷い続けていた私を阿弥陀仏の大悲は常に照らし続けていて下さった、その真実に今気付かれたのです。

無条件の救いが、なぜ私に必要なのかを一心に問うとき、仏果に至るために、もし何らかの条件がつけられていたならば、私は到底仏果には至り得ない、そのような自分を知ることになります。そして、同時にだからこそ無条件で私を救うために、照らし続けていて下さる大悲の存在を知ることになるのだといえます。