私たちは、自分ひとりだけでポツンと生きているわけではありません。
会いたくないと思っている人と出会ってしまうことがありますし、いつまでも一緒にいたい人と別れなければならないこともあります。
物や人に対して、嫌悪し愛着し欲求し続けることによって、私たちの中に苦しみや悩みが生まれるのです。
ところで
「無為(むい)」
という言葉は日常では
「無為に時間を過ごしてしまった」
と言うように、為すべきことがあったのに、特に何をするということもなく無駄に過ごしてしまったときに使います。
一方
「有為(うい)」
は
「あの人は有為(ゆうい)な人材だ」
と言うように、才能があり、役に立つ人を評価する言葉として用いられています。
ところが、仏教で使われる時の有為・無為はもっと深い意味を持っていると共に、私たちの語感とは反対です。
「有為」は、因縁によって生じた相対的な「迷い」の世界を指し、「無為」とは因縁によって生じたものではない絶対的な「覚り」の境地を表します。
常に変転してやまない有為無常の存在に対して、変転や迷いのない世界を無為涅槃界とよびます。
私たちは、 それほど迷わなくてよいことを為さなくてはならないと思い込むことで、苦悩すべき相手を取り違えてしまうことがあります。
本当に眼を向けるべき苦悩が見つかることによって、執着への迷いから解放される確かな道が開け、その極致こそが
「寂静無為の楽(正信念仏偈)」
であることを仏教は教えようとしているのだと言えます。