今日、非行という言葉は、主として刑罰法令に触れるような行為をした少年に対して用いられています。
「非行少年」「非行集団」「非行化」など、日常よく使われる言葉です。
他にも、家庭内暴力、陰湿ないじめなどの行為を指すこともあり、いずれも非行を犯した少年は要保護性を有し、公的機関において、保護・観察・拘束・教育・処遇などの対象になります。
ところが仏教で非行は「ひぎょう」と読み、「理屈・道理に合わない」という意味で用います。
それは批判の対象にはなっても、そこには必ずしも悪いという意味はありません。
要保護性のある少年には、大人に対するような犯罪という言葉を使うのではなく「非行」と呼ぶのはあるいはそのような意図があってのことかもしれません。
この場合とは語源は異なりますが、仏教には別の意味で「非行(ひぎょう)」という重要な概念があります。
「行に非ざるもの」という意味です。
「行」とは、無限の過去を背負っている私たちの存在を成り立たしめているその根底にあるはたらきです。
その反意語である「非行」とは、人間のあらゆる計らいを超えたものであり、仏の境地そのものです。
なお『歎異抄』に「念仏は行者のためには非行非善なり」とあるのはこの意味で、念仏は私の行う行ではなく、仏の願いのはたらきそのものであり、私は生きているのではなく、生かされているという立場です。
※参考文献「仏教が生んだ日本語」(毎日新聞社刊/大谷大学編)