仏のさとりによって造られた浄らかな国土、または将来さとりを開くべき菩薩の住むところを浄土といいます。
たとえば、薬師如来の東方浄瑠璃(じょうるり)世界、弥勒菩薩の兜率天(とそつてん)、観音菩薩の普陀落(ふだらく)、阿弥陀仏の極楽などをいいます。
したがって
「極楽」
といえば、阿弥陀仏の浄土をさします。
なお、極楽といえば
「楽しみが極まる」
と書いてありますが、その意味でいうと、もっとも楽しみの多いところということになるのかもしれません。
けれども、阿弥陀仏の浄土、すなわち
「極楽」
は最高に楽しいところということではありません。
いわゆる
「苦楽を超えたところ」
というのが、極楽の意味するところです。
もし苦楽の世界の中で、いちばん楽しみの多いとろことなると、それは所詮迷いの世界の中でのことに過ぎません。
そうではなくて、極楽とは、苦楽を超えるということです。
源信僧都の
『往生要集』
の中に、
「苦といい楽といい、共に流転を出でず」
という言葉があります。
流転ということは、言い換えると
「我を忘れる」
「我を失う」
ということですが、私たちは苦しい状態にあっても、
「愚痴を言う」
という形で我を失っています。
それと同時に、楽しい状態にあっても、その楽しみの中に我を忘れて、うかうかと過ごしてしまいがちです。
そこに苦しみといい、楽しみといっても、いずれにせよそういう
「我を忘れた在り方」
というものから抜け出せないでいます。
そうした私たちの中に、我を呼び戻す世界として
「極楽」
という言葉があるのだといえます。
同じような環境にあっても、そこに大きな問題を荷なって、生き甲斐をもって生きている人もあれば、逆にただ愚痴ばかり言って世の中を呪っている人もあります。
つまり、この世の中には苦しい世界や楽しい世界があるのではありません。
ただ与えられている状況を、自分の思いによって苦しいものと感じたり、あるいは楽しいものとして受取り、生きているという事実があるだけです。
それに対して、極楽というのは苦楽をありのままに受け止めるということです。
苦といい、楽といい、そのいずれをもそのままに受け止めていける世界を極楽といいます。
一方、苦楽ともに、それによって自分を忘れていくのが迷いの世界です。
また、極楽とは既に述べた通り
「浄土」
のことですが、浄土とは
「清浄の土」
という意味です。
「清」
とは、そこにいるすべてのものが、満足している在り方をいい、
「浄」
とは苦しみにおいて常に自らの事実を明らかに受け止め、楽しみにおいて他の人と共に出会っていける世界ということで、言い換えると自分の事実をどこまでも引き受けていける場所を持つと同時に、すべての人びとと喜びを共に分かち合っていける心かせ開かれてくるということです。