『亡き人から願われて手を合わす秋彼岸』

9月は秋のお彼岸を迎えます。

春と秋のお彼岸、そして夏のお盆。

これらは私たち日本人にとって、特に宗教的営みの深い期間とも言えるのではないでしょうか。

テレビでも

「彼岸の入り」

については、そのことの報道もあり、多くの方がお墓参りなどで手を合わせる姿を目にすることです。

また、彼岸の中日とも言われる

「秋分の日」

は、太陽がちょうど真東から昇り、真西の彼方に落ちていくといわれます。

そのため、よく昼と夜の長さが同じとも言われます。

カンボジアにある世界遺産

「アンコール・ワット」

は、この東西の方角上に建築されており、春分・秋分の日には、西側の参道正面からアンコール・ワットを望むと、ちょうど中央の塔のてっぺんから昇る朝日を見ることができるそうです。

太陽の軌道を中心にして、大自然のそのままの流れと一体となるように、このような巨大な建造物を築いた古代の人たちの心意気に驚かされます。

そして、そこから未来へ何を伝えようとしていたのか、思いを巡らすのもまた愉しくもあります。

親鸞聖人は、中国の道綽禅師(どうしゃくぜんじ)の言葉を引用して

「前(さき)に生まれん者(もの)

は後(のち)を導き、後に生まれん者(ひと)は前を訪(とぶら)え」

と私たちに呼びかけておられます。

「訪(とぶら)へ」

とは

「弔(とむら)う」

という意味に重ねることができます。

私の住む鹿児島県大隅半島辺りでは、法事をお勤めすることを、ご門徒の方は今でも

「おとむらい」

と呼んだりされます。

亡き方の法事を通して、その面影を訪ねながら、人間として生まれた私のいのちをしっかりと見つめ返す大切さを、このお言葉から味わいとることです。

あの人もいました、この人もいました。

みんなそれぞれに個々のいのちを生き、思い出の足跡を残して逝かれました。

名残惜しく思えども、別れていかなければならない厳しさを教えてくれました。

そし

てその厳しさはそのまま、私の歩む道でもあることを。

その面影の一つひとつは今、仏さまと私を繋ぐ仏縁として恵まれてあります。

合うはずもなかった手と手は、合掌礼拝する姿にまでこの私を育んでくれています。

昨日今日で培ったものではなく、遠い昔から多くのいのちの繋がりを経て

「あなたに」

と願われてあったことを思うと、ただただ

「ありがとう」

と頭が下がります。

「私が」

願うのではなく、

「私へ」

願われてあったと気付く、そんな秋のお彼岸でありたいです。