『亡き人から願われて手を合わす秋彼岸』

一般に、仏事がおこなわれていることの根底に流れている感情の一つに、

「気晴らし」

ということがあるのではないでしょうか。

よくご法事をお勤めした際に

「これで気持ちが晴れました」

ということをおっしゃる方がおられます。

おそらく、ご法事の日まで亡き方のことを懸命に思い、あれこれ気配りをし、ようやく無事勤め終えることが出来たので、成し遂げたことへの安堵感から発せられた言葉だと推し量ることが出来ます。

けれども、

「気が晴れた」

という言葉は、その意味をひっくり返していうと

「安らかに眠ってください」

という言葉になります。

それは、亡くなった人が安らかに眠っていてくださる時には、こちらの気が晴れるということです。

一方、もし亡き方の法事を営むことを忘れていたりすると、そのことを咎めるべく、おとなしく眠っていた方が起きあがって、自分たちに災いをもたらすのではないか、ということを虞(おそ)れる心がそこにはたらいていることがうかがわれます。

そこで、無事に法事を勤め終えたので、次の法事の機会まで亡き方はおとなしく、それこそ

「安らかに眠っていてもらえるに違いない」

ということから、思わず

「気が晴れました」

という言葉が口をついて出てしまうことになるのです。

しかも、しばしばその後に

「どうか私たちの生活を守ってください」

という身勝手な思いを付け加えることさえあったりもします。

それは、

「私はこれだけ亡き方のことを思っているのだから」

と、今度はそのお返しに、私を守ったり幸せをもたらしてくださいと期待する在り方に他なりません。

「亡き方のために」

といいながら、内面ではいわば取り引きをしていたりするのです。

親鸞聖人は、亡き方を

「諸仏」

という表現で仰いでおられます。

ご自身がお念仏の教えに生きることになったという一点において、一切の人々を諸仏と拝まれたのです。

したがって、先祖の方々も、単なる自分の亡き肉親という意味ではなくて、その人々が私をしてお念仏の教えに出会わせてくださる縁となられた、そういう尊いご縁を結んでくださった方々として仰いでゆかれたのです。

私にとって、亡くなった方がどういう意味を持っているのかということを考えてみて、もしその人が愚痴の種でしかなければ、これは仏さまという訳にはいきません。

やはり、どこまでも亡くなられた方を縁として、私が念仏申す身になるという時に、亡くなられた方が諸仏になるのです。

このような意味で、私にとって亡くなられた方がどうなっているか、言い換えると私において亡くなられた方がどう生きておられるのか、それがまさに仏教の問いであり浄土真宗の問いであると言えます。

思うに、この問い真剣に向き合うとき、私たちは日々の生活に追われて、ついつい自分中心の生活に陥りがちなものですが、その私を亡き方は拝まないときにも拝んでいてくださり、また案じ、念じ、願っていてくださることに気付くことができるのではないでしょうか。