自我という言葉は、一般的には自己自身、あるいは思考、感情、行為など、心理機能を司る人格の中枢機能のことを意味します。
例えば、
「子どもが自我に目覚める」
というように、人間の成長にとって必要不可欠なものであるとされます。
このように、いわゆる西欧流人間関係諸学科においては、自我の確立という考え方が学問や実務の上で大きな比重を占めます。
自我が意識の中心であるのに対して、自己は意識と無意識とを含んだ心の全体性であるとする考え方があります。
このような自己を経験する過程を
「自己実現の過程」
とするユング心理学の立場から、近年
「自我」
とい言葉が盛んに用いられるようになりました。
仏教以前のインド思想においても、
「自我(我=サンスクリット語でア−トマン)」
は人間の中心になり、最も基本的な常住なるものであると考えられました。
そして、古来この自我の意義が力説され、
「宇宙的原理即自我である(梵我一如)」
という神秘的体験を最高の境地とする思想が主流を占めてきました。
釈尊はこれを批判され、自我には実体はないとする無我の思想を打ち立てられました。
仏教によると、私たちが心身の統一体としてとらえている自己は、さまざまな要素の複合体に過ぎないものとされます。
すなわち、その複合体を固定的なものとみなす抽象概念を否定されたのです。
自己のみならず、人生、社会、宇宙はすべて、固定性のない無我ですから、それは実体がなく、どうにでも変容しうるものです。
人間の心にも自由意思が存在し、これによって、修養や努力による人間向上の可能性も認められることになります。
それでは、その複合体である自我を成立させるものとは何でしょうか。
釈尊は、自我は実在するのではなく、縁(条件)によってあるのであり、そういう関係性の上にすべてが成り立っていると説かれます。
したがって、私たちは、日常の人間関係においても、自我のみを重要視するのではなく、自己も他者も環境や社会も縁によって成り立っているという、東洋的な着想に立つことも必要になるのではないでしょうか。