『祇園』

 祇園といえば、今では多くの人が、京都の祇園をイメージされることと思われます。

しかし

「祇園精舎の鐘の声、諸行無常のひびきあり」

と、

『平家物語』

の冒頭に出てくるように、この祇園精舎は、インドのお釈迦さまが覚りを開かれた後、最も多くとどまって説法された場所の名前です。

伝承によれば、舎衛城の給孤独(きっこどく) 長者が、帰依したお釈迦さまに僧院を寄進しようと、その土地を探したところ、祇陀(ぎだ)太子の所有する土地が理想の場所であると思われました。

ところが、太子はその土地を長者に譲ろうとしないばかりか、たとえ金貨を敷きつめてもここを譲らないと答えました。

それを聞いた給孤独が、その土地に実際に金貨を敷き始めると、太子はお釈迦さまに対する給孤独の帰依の深さに感銘を受け、その土地の喜捨を申し出ました。

そればかりか、太子は僧院の建築に必要な材木(祇樹)をも寄進し、ここに太子と長者が共同でお釈迦さまに捧げた精舎が建立されました。

インドでは雨季がありますが、その期間は教化に歩くことができないため、お釈迦さまは一カ所にとどまって説法されました。

それを

「安居(あんご)」

といいますが、お釈迦さまはここで25回もの安居を行ったといわれています。

多くの人々を救うための法が説かれたこの精舎は、祇陀太子と給孤独長者の徳を偲び、二人の名前にちなんで

「祇樹給孤独園精舎」

(祇園精舎)と呼ばれました。

京都の八坂神社は明治初期の神仏分離令までは、この祇園精舎の名を取って祇園感神院と呼ばれる比叡山延暦寺の別院でした。

八坂神社と解明後も、その祭礼は祇園祭とよばれ、門前町は祇園として残ったのです。

これが、現在の祇園です。