「宗教」
という言葉は、英語の
「religion」
の日本語訳であり、仏教の用語とは無関係であると了解されているようですが、本来は仏教の用語に基づいて作られた言葉です。
「宗」
とか
「教」
という言葉は、古くから中国仏教において使われました。
仏教経典に対する解釈の中心問題を、
名(経典の名称)・
体(経典の構成内容)・
宗(教説の真髄)・
用(経典の効用)・
教(教説の指示)
の五項目に要約し、その中の宗と教とを熟して宗教という言葉を造ったものと推定されます。
その用語例は必ずしも一定ではなく、
「宗の宗」
「宗すなわち教」
「宗と教」
などさまざまですが、後に
「宗の教」
という意味に定まり、宗は教によって指示されるべき真髄(要点)のこと、教は宗を表示する文字や文句のことと解釈され、仏教の要点を表示する言葉という意味に至っています。
その場合、宗教といえば必ず仏教のことで、仏教の真髄(宗)を説く法(教)という意味が、宗教という言葉の内容でした。
この宗教がなぜ
「religion」
「religion」
という英語の和訳語となったのでしょうか。
この言葉はその語義解釈によれば、キリスト教では
「神と人間との再結合」
と説かれています。
それは、エデンの園において神との約束を破った人間は、神に背いたという原罪を持って生まれていますが、神にその罪を懺悔することによって、再び神と結びつき救済されるという意味です。
「宗教とは人間と神(聖なるもの)との出会いである」
と説明されるのも、この語義解釈による理解を表したものです。
このような意味では、創造者としての神の存在を認めていない、いわゆる
「神を持たない宗教」
としての仏教は、
「religion」
ではないことになります。
ところが、この
「religion」
については、キリスト教以前では
「再び観察すること」
と語義解釈されています。
そうであれば、宗教とは自らの人生を立ち止まってもう一度見直すことという意味になり、それは正しく仏教ということになります。