本願は、本来的には、菩薩が仏になるために発する誓いであって、一切の衆生を救い完全なる悟りを開くために理想の願いを建て、それを完成させるために菩薩は堅固な心で厳しい修行をされます。
その根本的な願いを本願といいます。
この本願には、すべての菩薩に共通する総願と、その菩薩独自の別願とがあります。
総願は
「四弘誓願(しぐぜいがん)」
と呼ばれ、すでに
「本願」
の項で述べました四つの誓いのことです。
別願は、阿弥陀仏の場合、法蔵菩薩のとき建立されました四十八願で、この本願のすべてを成就して阿弥陀仏になられたのです。
そこで浄土教では、本願といえばこの阿弥陀仏の四十八願を指します。
この四十八願には、まず国土のすばらしさが誓われ、この国土には迷いの因はなく清浄であって、衆生はすべての菩薩の位、正定聚(しょうじょうじゅ)に住するとされます。
次に、自ら光明無量・寿命無量の仏になると誓われ、この仏の名号が十方の諸仏によって讃嘆され、諸仏国土に響流するとし、諸仏国土の衆生の弥陀浄土への往生の因が示され、最後に浄土の菩薩の仏道が説かれています。
法然聖人はこの四十八願の中で、最も重要な願は第十八願であるとされ、この願を王本願と呼ばれました。
それは四十八願中、第十八番目の願なのですが、阿弥陀仏はこの本願で、一切の衆生が平等で容易に浄土に往生するための往因となる
「行」
を誓われているのです。
それゆえに、私たち浄土を願う衆生にとっては、この第十八願が最も重要願になるのです。
阿弥陀仏は、無限の大悲心をもって、最高の功徳を有する名号を成就死、その南無阿弥陀仏を往生の行業として十方の衆生に廻向し、一切の衆生をお救いになろうと願われているのです。
それが第十八願の内実ですから、この本願は一切の衆生に対して、
「弥陀の大悲を信じ、念仏を称えて往生せよ」
と願われていることになります。
それは誰にでも容易に行ずることのできる仏道ですから、これに勝る仏果への道はありません。
法然聖人自身、この本願に出遇われたからこそ、真の仏道を歩むことが可能になられたのです。
そこでこの本願を
「王本願」
と呼び、一切の諸行を捨てて、ただ本願に誓われている称名念仏のみの道を歩まれたのです。
親鸞聖人もまた、法然聖人からこの第十八願の教えを聞き、獲信して念仏のみの道を歩まれることになります。
ところで、親鸞聖人はその聞法の中で、この教えがなぜ自分に届き、往生が定まったかを思念され、されは第十七願の諸仏の念仏の讃嘆と、第十八願の阿弥陀仏の大悲心、第十一願の獲信の念仏者は必ず仏果に至るという誓い、それに第十二・十三願に誓われている、光明無量・寿命無量という阿弥陀仏の無限の功徳によると見られ、この第十八願から五つの真実の本願を導き出されました。
※「言葉の散歩」は今回で終了します。
次回からは新たに「鹿児島の念仏の歴史」が始まります。