『本願』

私たちの教団は

「本願寺教団」

と呼ばれています。

ここでは、浄土真宗のみ教えが説かれていますが、それは阿弥陀仏の本願によって救われるという教えです。

岩波国語辞典で

「本願」

の語を見ますと、

「本来の願い。仏・菩薩が衆生を救うために起こした誓願」

と説明されていますが、私たちにとって

「本願」

とはいったい何なのでしょうか。

正しく人生を歩むためには、心の根源に正しい世界観や人生観をもって、日々をよく生きようと願い、その願いを実現するために一心に努力し実践することが必要です。

仏道の歩みも、根本的にはこれと同じであって、自分の心の根源に仏になりたいという強い願いと、その願いを完成させるための厳しい行道が求められます。

そして、この行道を歩む行者を

「菩薩」

と呼びます。

では、具体的に、菩薩はどのような願いを起こして仏になろうとしているのでしょうか。

仏教では、菩薩が仏になるためには、必ず次の四つの誓願を起こさなければならいといわれます。

(1)すべてり衆生を必ずさとりに至らしめよう

(2)すべての煩悩を断ち切ろう

(3)すべての教えを学び知ろう

(4)「この上ない悟りに至ろう

という誓いです。

そしてその上で、菩薩はさらに各々独自の誓願を建て、迷える衆生を救い、その衆生を仏果に至らせるために、さまざまにはからわれるのです。

とすれば、いかなる仏の

「本願」

も、結局はただ一つになってしまいます。

大悲心でもって寸時の休みもなく、迷える一切の衆生を救い続けること以外に仏の道は存在しないからです。

こうして仏はまず、自身の一切の煩悩を断ち切り、無限の智慧を成就し、その功徳でもって一切の衆生を救うのです。

その無窮の行道が仏の本願になります。

このようにみれば、

「本願」

という心は、私たち凡夫には一片もあり得ないといわねばなりません。

貪愛(とんない)と瞋憎(しんぞう)の迷いに満ちた愚かな私たちの心には、煩悩を断つ力も、仏道を学ぶ智慧も全く見出せないからです。

それ故にこそ、仏は本願力をもってこの迷える凡夫を救おうと願われているのです。

では、迷える凡夫にとって、何が最も重要な仏道となるのでしょうか。

それは、この迷える私を間違いなく、しかも速やかに必ず仏果に至らしめる本願に私自身が真に出遇うことだといえます。

釈尊をはじめ、一切の諸仏はすべて、阿弥陀仏の

「本願」

を讃嘆し、衆生はぜひともこの本願によって救われよと教えられます。

なぜなら、弥陀は本願に

「ただ念仏せよ、救う」

と誓われているからで、これに勝る仏道は存在しません。

そこで諸仏は、その念仏の勧めを、諸仏の本願とされたのです。

法然聖人は、この釈尊の勧めに従って、阿弥陀仏が本願に選択された念仏こそ、唯一の仏道だと明かされたのです。

私たちの本願寺教団は、親鸞聖人のみ教えにしたがう者の集いですが、親鸞聖人は法然聖人の教えをさらに純化されて、弥陀の本願の教法をただ聞信せよと勧められ、ここに

「念仏せよ、救う」

という本願の真実を、ただ信じるのみという道を開かれたのです。