阿弥陀仏は、浄土教徒にとってのご本尊で、私たちし念仏者はこの仏に帰依し、この仏に救われるのです。
「阿弥陀」
とは、古代インド語の
「アミターユス」
「アミターバ」
という言葉の音を、中国でそのまま漢字に写したもので、阿・弥・陀という漢字には意味がありません。
原意をたずねると、
「ア」は否定の「無」という意味、
「ミター」は「量」を示す言葉ですから、
「アミター」は「無量」という意味になります。
これより
「アミターユス」は「無量寿」、
「アミターバ」は「無量光」
を表すことから、
「阿弥陀仏」は
「無量の寿命と無量の光明」
という無限の功徳を有する仏ということになるのです。
仏教では、
「光」
を非常に重視します。
それは、光が闇を破るからで、闇は
「心が暗闇だ」
という表現からも窺えるように、ものごとが見えず、惨憺たる状態で、迷い苦悩する無智なる心を象徴しています。
したがって
「光」
は、その迷妄を破る力となり、悟りの智慧を象徴しますから
「無限の光明」は
「完全なる智慧」
という意味になるのです。
光は瞬間的に空間の暗闇を突き破ります。
その光が無限であれば、この世における一切の闇は、この光にくまなく突き破られていることになります。
いま、阿弥陀仏の智慧という面からこの点を窺いますと、阿弥陀仏は完全なる智慧でもって空間の一切を見通し、この世における真実と不実のすべてを露にし、何が真実であり何が偽であるかを見極めておられるといえます。
ここに不実な心で迷い苦しんでいる衆生がいるとします。
衆生の存在が、宇宙のどこであっても、それは問題ではありません。
たとえどんな辺鄙なところであっても、阿弥陀仏は無限の智慧の目でもって、その衆生をすでに見通していることになるからです。
ところで、迷い苦悩する者を見出し、その者をそのまま捨ておくのであれば、それは単なる知的発見でしかなく、完全なる智慧とはいえません。
智慧が完全であるということは、苦悩する衆生を見出したその瞬間に、みずからが衆生の心に飛び込んで、苦悩を救おうとする
「慈悲」
が、この智慧から必然的に生まれなければなりません。
完全なる智慧は、完全なる慈悲心を有してこそ、完全なる智慧なのであり、いかなる者をも救う慈悲心には、必ず完全なる智慧が有せられていることになるのです。
ところで、迷い苦しむ衆生は、空間的にも時間的にも、次々に数限りなく現れ出でます。
したがって、それらの衆生を救い続けるためには、空間の闇を破る光が無限であると同時に、一切の時間を満たす、寿命の無量性がここに確立されていなければなりません。
「阿弥陀仏」とは、
「無量の寿命と無限の光明」
を有する仏という意でした。
それは今、現に愚悪を自覚するがゆえに苦悩している、その者こそを救う仏ということになります。
悪を自覚する衆生は、苦悩のどん底で、阿弥陀仏のみがこの自分を摂取されることを知り、ただ一心に弥陀に救いを求めることになるのですが、それ故にこそ阿弥陀仏は、この苦悩する悪人こそを救いの正機とされるのです。