「往生」
という言葉は、本来仏教語なのですが、日常語においてもしばしば用いられています。
例えば
「急いでいたのでタクシーを利用したら、ラッシュに巻き込まれて往生してしまった」
と、どうしようもない状態に追い込まれて閉口したとき。
あるいは
「○○さんが往生されました」
と、誰かの
「死」
を物語るときなどです。
ところで、
「往生」
という言葉はこのような意味なのでしょうか。
決してそうではありません。
なぜなら
「往生」
とは
「往き生まれる」
としか読めないからで、
「往く」
とは、道が通じてそこまで到達することであり、いわば
「どうしようもない状態」
の解決を意味する言葉です。
「生」
もまた
「死」
とは全く反対の言葉に他なりません。
では、往生とは、本来どのような意味なのでしょうか。
読んで字のごく
「往き生まれる」
ということですから、私たちが生活している、この苦悩の多い迷いの世界から、迷いの全くない清浄な国土に生まれていくことを
「往生」
と言ったのです。
私たちにとって、その清浄な国土とは、阿弥陀仏の浄土を指しています。
ただし、その浄土に生まれることが出来るのは、阿弥陀仏の本願を信じている念仏の行者に限られます。
いかもその行者の臨終を待たなくてはなりません。
真実信心の念仏者が、命終えるそのとき、まさにその瞬間に阿弥陀仏の浄土に往き生まれて仏となるのですが、そのすがたを
「往生」
と言ったのです。
この点からすれば、念仏者にとっては、往生とはまことにめでたい言葉であって、往生することによって迷える凡夫がはじめて完全なる仏になるとが出来るのです。
ただし念仏者以外から、このすがたを見れば、それは単なる
「死」
でしかありません。
往生が死を連想せしめ、さらに人々にとっては、死こそその人の人生の終着点、最悪の場でしかありません。
そこで、人生の途上でどうにもこうにもならなくなった閉塞状態を
「往生」
と呼ぶようになったのだと思われます。
ところで、親鸞聖人はこの往生に三種の相を見いだしておられます。
「雙樹林下(そうじゅりんげ)往生」と
「難思(なんじ)往生」と
「難思議(なんじぎ)往生」です。
雙樹林下往生とは、釈尊の臨終を理想化したものであって、迷いのない清浄な心を往生の因になそうとすること。
難思往生とは西方の浄土を純粋に信じて、一心に往生を願うことです。
ただし、この二つの往生の求めには、どうしても凡夫のはからいが残りますので、今日ではこの行の完成は不可能となっています。
難思往生とは、阿弥陀仏が一切の衆生をただ一方的に往生せしめようとしている、本願の不可思議力に乗じようとするもので、この本願を信じ念仏することが、私たちにとって唯一の往生浄土の道になるのです。