一般に墓石には
「○○家之墓」
と刻まれているのを目にしますが、浄土真宗では
「南無阿弥陀仏」
あるいは
「倶会一処」
と書くのが本来のあり方です。
「南無阿弥陀仏」
は名号ですが、
「倶会一処」は
『阿弥陀経』
に述べられている言葉で、釈尊が私たちに阿弥陀仏の浄土の素晴らしさを説かれた後、
「この教えを聞いた人々は、全て念仏を称えて浄土に生まれたいと願いなさい」
とお勧めになります。
なぜなら、浄土は無限の輝きの中にあり、いかなる苦も存在しないからですが、それよりも必ず仏になられる、すぐれた方々と
「倶に一処で会う」
喜びに満たされていることをその理由として示されます。
人生における最大の喜びの一つは、すばらしい人との出遇いであり、また人生の喜びを愛する人と語り合うことだと言えます。
ただし、それが最大の喜びであればあるほど、最愛の人との別れは、その人にとって最も深い悲しみになると言わねばなりません。
ところで、この世が無常の理に置かれている以上、よき人との出遇いや、愛する人との語らいはやがて破綻を迎えることになります。
人生の苦しみの一つに、嫌な人、憎悪すべき人と顔を合わせなくてはならない時があります。
しかも人生の途中で、長い年月、それを強いられますとやりきれません。
けれどもこの世は、私の意のままに動いているのではありませんから、人生は往々にして憎むべき人と憎悪し合って生きなければならなくなります。
だからこそ釈尊は、怨憎すべき者が誰一人もいない、素晴らしい人々に囲まれ、愛すべき人と永遠に語り合える浄土を願いなさいと、私たちに教えて下さるのです。
それが
「倶会一処」
という言葉だと窺えます。
では、なぜこの世は、このように愛する人と別れなければならない一方、憎しみあわなくてはならない人とも顔を合わせて生活しなければならないのでしょうか。
この世の人々は誰しも、自分自身を中心として勝手気ままな行動を取っているからで、無限の因が無数に関係し合って無秩序な結果を導き出しているからです。
したがって、いつ誰と出会うが分からない状態に置かれていると言わなければなりません。
様々な人が、心のままに無数の因を作って、様々な迷いの果を導いているのです。
そこで釈尊は
『阿弥陀経』
で続いて
「少しの善根や福徳を積んだだけでは、今まで行ってきた迷いの因縁を断ち切ることができず、阿弥陀仏の浄土に生まれることは不可能です」
と述べられ、だからこそ仏行の中で最大の功徳の有する念仏を行ぜよと、私たちに教えられるのです。
この世の迷いの一切は、各自が無数の迷いの因を作っているからです。
もしここに、同一の因縁がはたらけば、結果が同一であることは言うまでもありません。
だとすれば、すべての者が阿弥陀仏の浄土に生まれ、証に至る同一の因縁に私たちがもし出遇うことが出来るとすれば、私たちは全て同一の果を得ることになります。
そこで、曇鸞大師はこの釈尊の教えを承けて、同一に念仏して共に阿弥陀仏の浄土に生まれようではないかと勧めておられます。
それは、念仏に導かれたご先祖の全体が生かされている場でもあるのです。