『来迎』

仏教では、私たちの姿を

「迷える者」

と呼びます。

私たちの毎日は、先がほとんど見えず、心は常に不安で揺れ動いています。

幸福な人生を楽しく豊かな生き方を求めて努力しながら、よき結果はなかなか得られません。

そこで、日常の多くは、他人と争い、苛立ち、苦悩し、痛む心で満ちています。

人間はお互い、世間や未来を正しく見る目を持っていないからで、それ故に、人は迷い疲れて苦痛に満ちた人生を送らなければならないのです。

仏教は、この迷える者のために、その迷いを破る道を教えます。

釈尊自身、苦悩の人生のただ中で、極めて厳しい行道によって智慧を完成させ、迷いを根底から破って何ものにも動じない悟りの心を得られたからです。

そこで人々は、釈尊の教えにしたがって安らかな心を得ようと願い、仏教はこの人々に悟りへの道を教えるのです。

この仏教に、聖道門と浄土門という、二つの大きな流れがあります。

聖道門とは、この世で釈尊と同様の悟りを開くことを目指す仏教ですが、よほど優れた者でなければこの行の実践は不可能だと言わなければなりません。

そこでこの門を通れるのは、ごく限られた聖者のみということで、この仏道が聖道門と呼ばれるのです。

私たち大多数の凡人は、当然のこととして、この厳しい実践に堪え、この世で悟ることは不可能です。

けれども、やすらかな心を得たいという願いは、聖者の心と変わりません。

そこで、阿弥陀仏の本願に救いを求め、次の世に浄土に生まれることが確約されて、この世で安堵を得たいと願う仏教がいま一つ求められたのです。

それが、浄土門です。

そこで浄土門では、ただ阿弥陀仏のみを信じ、口に南無阿弥陀仏を称え、一心に浄土へ生まれたいと願い続ける行道が求められているのです。

ところで、この念仏者は、いま一心に称名念仏を称え続けています。

それは、阿弥陀仏の名を呼び、阿弥陀仏の心をわが方に向けさせ、その本願力によって我を救い給えという一心の願いです。

そうであれば、阿弥陀仏の大悲は、この願いに応えられないはずしありません。

その証が、この念仏者の臨終に現れます。

この念仏者の仏道を誉めて、阿弥陀仏自身が多くの菩薩を伴って、この者を浄土に生まれさせるためにその臨終に迎えに来られるのです。

この臨終来迎の思想は、平安中期以後、浄土教信仰が盛んになるにつれて広く求められることになりましたが、親鸞聖人の思想の特徴は、この臨終来迎を否定されたところにあります。

なぜ、親鸞聖人は浄土教者が最も願い求めた、阿弥陀仏の臨終時の来迎を否定されたのでしょうか。

それは、南無阿弥陀仏とは私の阿弥陀仏への信を示す言葉ですが、私の口から南無阿弥陀仏が称えられたということは、私が称えるに先立って、阿弥陀仏が私を呼んでくださっていると見られたからです。

つまり、阿弥陀仏は臨終において初めて私の前に来られるのではなくて、私がいま念仏を称えているここに阿弥陀仏が私を摂め取っておられるすがたがあるのです。

そこで、親鸞聖人は臨終の来迎を必要とはされなかったのです。