『涅槃経』に、父を殺害した極悪人の阿闍世(アジャセ)が、仏に帰依するまでの経緯が述べられています。
王位を求めて欲望に狂わされた阿闍世が、父王を殺害することになるのですが、殺害して我に返った時、自分のなした非道を後悔し、犯した罪の深さに恐れおののくことになります。
そして、自分は必ず地獄に堕ちるという恐怖が、やがて阿闍世の心を究極まで苦しめ、身体が重い病に罹ってしまいます。
身体的に痛みと心の苦痛が、阿闍世に生きながらの地獄を味わわせます。
そこで阿闍世の家臣たちが、世の名医をつれてきてその病を治そうとします。
名医たちは、阿闍世に罪のないことを証明して恐れる必要のないことを説くのですが、阿闍世の病は全くよくなりません。
そのような時、一人の名医、耆婆(ぎば)が阿闍世のもとに近づき、苦悩する阿闍世に良きことだと述べるのです。
自らの行為の非道さを後悔し、地獄に堕することを恐れて苦悩のどん底でのたうち回る、その姿がなぜ良いことなのでしょうか。
耆婆が阿闍世に重ねて言います。
王は今、慚愧(ざんぎ)の心を抱いた。
その慚愧の心こそ、王が人となった証である。
「王よ、あなたにやっと仏の教えを聞く心が生まれた」
と言い、そのことを良きことと喜び、
「さあ、早く釈尊のもとへ」
と阿闍世に仏教を聞かせる縁を作ったのです。
では、人が人であるかないかを決定付ける
「慚愧」
とはどのような心なのでしょうか。
『涅槃経』では、次のように説明します。
「慚」
とは、自分自身、絶対に罪を作らないという心です。
「愧」
とは、他人にその心を教えて、他人にも絶対罪を作らせない心です。
ところで、この慚愧の心を自ら一心に実践しようとしますと、当然のことながらその不可能性を知ることになります。
そこで、
「慚」
とは、その自分の姿を省みて、自らを深く羞恥する心になります。
これは一見、先の慚愧から後退しているように見えますが、そうではなくて、ここに慙愧の深まりがあります。
なぜなら、この人こそ、自ら深い人徳を備えた人といえるからです。
そして、その人から自然に人格の深さが醸しだされて、その人に出会う人は、その人徳に打たれて、自分の愚かさに恥じらいを感じる。
そのようなはたらきが、
「愧」
だとされるのです。
けれども、もしこのような恥じらいをもつ者のみが人間だとされますと、これはもう天に恥じ、地に恥じるしかありません。
その天に恥じる心が
「慚」
であり、地に恥じる心が
「愧」
です。
親鸞聖人の愚の自覚は、この
「慚愧」
の心だと言えるのではないでしょうか。
宇宙全体の中で、自分こそが極悪人だと見られているのですが、これこそが仏道だといえます。
人々から見れば、これ以上尊敬することができないほどの人徳を身につけ、仏教の造詣らも深かった。
しかもその方が、自分たちと全く同じ立場に立たれ、その自分を恥じらっておられるのです。
阿弥陀仏の本願は、このような悪人こそを救われるのであり、そしてまた、この悪人こそが阿弥陀仏の大悲を必要としています。
仏の恩を知り、師の恩を知った者は、自らの罪悪性に慚愧しつつ、弥陀の大悲に摂取されている安らぎを味わっているのです。
自らのいのちを懸命に生きつつ、仏の恩、師の恩に報いるために、自ら受けた教えの喜びを他に伝えるための人生を歩むことになるのです。