「ひかりといのちきわみなし」
を漢字で書くと
「無量寿・無量光」
となります。
これは、南無阿弥陀仏の願いの働きを意味しています。
まず
「無量寿」
ということですが、私たちは無量寿というと、中国以来のいわゆる不老長寿あるいは肉体的な長生不死と同じようなイメージを心に浮かべます。
けれども、いつまで死なないということだけで、果たして私達は幸せだといえるのでしょうか。
寿命の寿という字には「ことぶき」喜ぶという意味があります。
つまり
「生きている」
という時には、その生きていることに喜びが伴わなければ、真の意味で生きていることにはならないのではないでしょうか。
ですから、私達は生きていることに喜びが伴わなければ、むしろ死ねないことが苦痛になるのです。
なぜなら、どんな苦しみにも終わりがあるということで救われている面がありますが、もし死ねないことになれば、この苦しみにも終わりがなくなってしまいます。
したがって、阿弥陀仏の寿命が無量だということは、多くの人びとに生きる勇気を与え、生きる喜びを与え続け、その働きが人から人に波及していくことに限りがないことを意味しています。
次に「無量光」とは、阿弥陀仏のはたらきを空間的にあらわした言葉です。
仏教では迷いの心を無明と言い表し「闇」にたとえます。ですから、その闇を破る働きを「光」で表すのです。
無明の闇というと、文字の上からは何も見えなくて暗闇を手探りで歩いていることのように思ってしまいますが、本当のいちばん深い闇は
「わかっている」
という思いです。
つまり、自分は何でもわかっていると思い込んでいる、そういう自分を振り返ることのない在り方が闇という言葉で表されているのです。
したがって、自分の思いを一歩も出ることがないために、事実に触れることが出来ないのです。
だからこそ、永遠の闇であり「無明」だと言われるのです。
それはまた、わからないのではなく、わかっていないことをわかっていない在り方だともいえます。
そのような私を照らし、多くの迷いに惑いながら生きているにもかかわらず、そのことにさえ気がつかない私の事実を知らしめるはたらきこそが、まさに光の働きなのです。無量光とは、仏が私を照らしだす働きに限りがないということを意味しています。
これからの一年、周囲の人びとと「ひかりといのちきわみない」南無阿弥陀仏の働きを共に感じ、喜びながら過ごして行きたいものです。