『平和のために戦いが続く なんと愚かなことか』

「善人ばかりの家庭では争いが絶えない」

という言葉があります。

一瞬、どうして?

と首をひねってしまう言葉ですが、争いをしている時のことを考えてみると、確かにそうだなと思わずにはおれません。

何らかのことで言い争うとき、私たちはいつも無意識の内に

「自分は正しくて、相手は間違っている」

ということを前提にして、自分の正義を主張しています。

けれども、争っている相手の人も同じ思いの中で自らの正義を主張しますので、そこに「争い」が生じてしまうことになるのです。

そうすると、「争い」とは悪と悪とのぶつかり合いではなく、実は善と善とのぶつかり合いであると言えなくもありません。

そして、正義の行いであると信じる思いが強ければ強いほど、その主張は激化していきます。

したがって、たとえそれがどれほど素晴らしい主義・主張であっても、そこに自分を見つめる視点を持たない在り方は、必ずひとりよがりの「独善」に陥る危険性を孕んでいます。

それは、そこに掲げた事柄が「平和」という崇高な理想であっても、何ら変わることはありません。

なぜなら、それを行うのはあくまでも

「死ぬ瞬間まで迷いの消えることのない」

凡夫の私だからです。

現に、世界中を見渡してみると

「平和のために」

と、自らの正義を掲げて、そこでは悲惨な戦争が行われています。

それは「平和」を掲げようと「愛」を掲げようと同じことです。

「戦争」そのものが、愚かな行為なのです。

それなのに、そこに「平和」を掲げると、あたかも戦争が内包している悲惨な事柄がかき消されるかのように錯覚してしまうことがあります。

経典には

「生きとし生けるものは、すべて自らのいのちを愛して生きている」

と説かれています。

改めて、いかなることを正義の旗印に掲げようと「戦争」とはいのちを奪い取る愚かな行為に他ならないことを見据えていきたいものです。