『忘れてもいつも寄り添うほとけさま』

ある男性が長旅をして帰ってきたときに、恋人に対して

「私のことを時々思い出してくれたか?」

と聞きました。

するとその恋人は

「いえ、あなたのことを思い出したことはありません。」

と答えました。

少しは自分のことを思ってくれているだろうと思っていた男性は、その恋人の言葉に驚いて

「どうして?」

と聞きました。

するとその恋人は

「だって、あなたのことをひとときも忘れたことがないんですもの」

と言ったそうです。

この話を聞かせて頂いて、

「私は、阿弥陀さまのことを常に想っているだろうかなぁ」

と考えたことです。

私は、時々阿弥陀さまを想い出して、お念仏を申します。

いや、時々お念仏を申して、阿弥陀さまを想い出すといった方がよいかもしれません。

また、お念仏を申しているときでも

「今日のごはんはなんだろう」

とか、つい他のことを考えていることもあります。

四六時中、阿弥陀さまのことを想うということが、残念ながらできない私自身の姿があります。

しかし、阿弥陀さまは、私が阿弥陀さまのことを忘れている時でも、私のことを一瞬たりとも忘れたことがないのです。

いつの頃からかというと、それは

「久遠の昔から」

と、聞かせて頂くことです。

親鸞聖人は正像末和讃で

「弥陀大悲の誓願をふかく信ぜんひとはみなねてもさめてもへだてなく南無阿弥陀仏をとなふべし」

(註釈版聖典609頁)と、お念仏を申すことをお勧め下さっています。

弥陀の誓いが私の信心となり、称名念仏となってはたらき続けて下さっている姿を讃嘆されるのです。

深い悲しみや苦しみの中では、お念仏申すことさえ忘れてしまうことがあります。

ただ涙を流し、ただ呻き声をあげるばかりの私ですが、その私を阿弥陀さまは見抜かれて、南無阿弥陀仏となって私の称名念仏となって下さいます。

その涙の中、呻き声の中に阿弥陀さまの大悲の誓願ましますことを偲ばせていただくことです。