『忘れてもいつも寄り添うほとけさま』

私たちが日頃見馴れている、お寺やご家庭のお仏壇に安置してある仏さまは、立っておられます。

初めからそのよう立ち姿を見ているためか、仏さまが立っておられることに何の不思議も感じることなく、またこれが仏さまのお姿なのだろうと思っています。

ところが、唐(中国)の善導大師は、仏さまが立ち上がっておられるということは、まことにもって仏さまにあるまじき軽挙であるといった批判しておられます。

つまり、仏さまが立っておられるなどということは、軽挙妄動だと述べておられるのです。

実は仏さまは、奈良や鎌倉の大仏さまのように座っておられるべきなのです。

何故なら、仏さまはその悟り・三昧(さんまい)の世界に住しておられるのが本来の姿だからです。

また、仏身とは仏法の世界をあらわされたもので、その三昧に住する姿が、あのどっしりと静かに座っておられる姿なのです。

にもかかわらず、仏さまが自ら立ち上がって人間世界に出て来られるということは、仏法の世界が曖昧になってしまう。

あるいは、仏さまとしての純粋さがなくなってしまう。

しかもそれは、仏法をあやうくしてしまう、まことに軽挙なお姿だと善導大師は注意されるのです。

ところで、信心生活にあって一番危険なことは

「慣れ親しむ」

という事実に関わる問題だといわれます。

「慣れ親しむ」

というのはどのようなことかというと、蓮如上人が

「如来・聖人・善知識に馴れれば馴れるほど、いよいよ信仰の心を深くして、一心に仏法に耳を傾けるべきであるにも関わらず、いつもそばにいて、一番教えを聞いているような顔をしながら、実際には身をあげて聴聞しなくなってしまうことだ」

と、述べておられます。

私たちは、仏さまに慣れ親しむと、仏弟子にならず仏さまのファンになってしまうのです。

そして、如来(仏さま)・聖人・善知識に親しい自分に酔いしれるばかりで、自分の身をあげて聴聞することがなくなってしまうのです。

しかもより深刻なのは、少しも仏法を聴聞をしないのに、その一方で自分こそは第一の仏弟子であるという自負心を持ってしまうことです。

そのため、

「馴れ親しむ」

ということを蓮如上人は、常に厳しくいましめておられました。

このような意味で、仏さまが座っておられるのは、そこにおのずと私たちとの距離を保っておられる、あるいは距離を示しておられることが窺えます。

つまり、仏さまは座ることによって、私たちと一定の距離を保ち、無言の内に仏法の世界を示しておられるのです。

それは、静かに座って、私たちに深く信仰する心を呼び起こそうとしておられるということです。

ところが阿弥陀さまは、求道者にとって致命傷ともなりかねない、馴れ馴れしさを呼び起こすという危険をあえておかしてまで、自ら立ち上がっておられます。

このように、立つという姿には、深く大きな意味があるのです。

そして、そのことを善導大師は見逃さずに、問いかけていてくださるのです。

「なぜ仏さまは、そのような軽挙をあえてなさっておられるのか」と。

そういう問いをあえてあげられ、その問いを通して、仏さまの本意を明らかにしておられるのです。

善導大師は

「仏さまの徳はきわめて高く尊いものであって、無造作に軽はずみなことをすべきものではない。

にもかかわらず、何故、阿弥陀さまは静かにその境界に端座したままで衆生に対せられないのか」

と、問うておられます。

その理由を

「阿弥陀さまは、衆生が一歩一歩行を積んで、やがては自分と同じ境界にまで到達するのを座したままで待っていることが出来ずに、仏さまの方から既に立ち上がり一歩踏み出してくださっている」

と明かされます。

ここで阿弥陀さまによって見られている衆生とは、今まさに堕ちていこうとしている衆生です。

そこで、この一瞬を逃しては、もはやこの衆生は救われることがないという、その時をとらえて立ち上がっておられるのです。

けれども、繰り返しますと、ここで一歩間違えば、阿弥陀さまは仏としての生命を失う危険があるのです。

にもかかわらず、その危険をあえておかしてまで立ち上がっておられるということは、その苦悩の衆生に仏としての正覚を賭けてあらわれたということなのです。

ご家庭のお仏壇に見られる絵像、お寺の本堂に安置してある木像、いずれもその立ち上がられたお姿は、阿弥陀仏の願心そのもののかたどりです。

それはまた、親鸞聖人が

「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人がためなりけり」

と讃嘆された、願心の姿に他なりません。

阿弥陀さまの立ち姿を通して、私たちが願うに先立って自ら立ち上がり、いつも寄り添ってくださる仏さまの尊い願いに心から耳を傾けたいものです。